遊泳

猫、或いはサイエンス

発言の範囲

書きたい気持ちがあるのに胸のなかをぐるぐるめぐるような日々、ようやく抜け出して澄んだ気持ちになっています。
もう大丈夫だという確信がある。
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「どうしてそんなに心が綺麗なの」と半ば冗談みたいに会社の先輩に訊かれたのであれこれ考えていた。

私は「汚いものも見えている」のだ。しかしそれらと綺麗なものとを選り分け、そして「綺麗なものだけを抽出している」にすぎない。
その証拠に、私は他人の醜い汚いと(私が)感じる部分についても綺麗な部分と同様に、言及できる。
彼女と私との間で差異があるとすれば、彼女は醜いと感じる部分について言及することを心のうちに留めておけない、つまり発言の範囲をコントロールすることができないというだけのことのように感じている。
もうひとつ違いがあるとすれば、私は「醜い部分もあるのが人間だ」と考えているし、それを理由に他人を嫌うことはあまりない。要素で評価し二項対立するようなことはしない。
自覚があるそれらについて「心が綺麗」と評価されるとなんだかな、と思ってしまうけれど、私はお礼を言いつつ「誉めすぎですよ」とにこりと笑う。あともう少し、巧く生きたい。


ツイ消しされることで「それをpostした理由」に「それを消した理由」が加えられる。これも「2つのモダリティがつながると理解になる」という話とどこか通底しているように思う。
二点間にはそれらを結ぶ「心の動き」があらわれる。「なぜ消したのか」それが私にとってのツイ消しの面白さなのです。自分が消したときでもね。


今日はひとつ嬉しいことがあった。
初めて見かけたときから彼女が可愛くて聡明で透明に見えていたから、とても嬉しかった。
調和を乱さないよう、そっと離れたところからにこにこと微笑んでいたい。
愛しいひとたちが日々、幸せでありますように。

commit

雨。
2日連続で激しい雨音を聴きながらぼんやりとしています。



何度かここでもTwitterでもこの事について言及しているように思うけれど、つらさを分解していくとただの要素になってゆくと思うのです。
感情から理論への相転移が起きる。そしてこれは可逆性をもつ。
幸福も、おそらく同じなのではないかなあ。

受動的な幸福と能動的な幸福との間に大きな違いはないけれど、後者のようになんらかの出来事に対して積極的に幸福を見出だしてゆくことは自分次第で可能だと思うのですよね。
文脈の取り方次第で結末は変わる。
そういった意味で、つらさもまた同様なのではないか。
そのように考えていたのでした。


これはあまりにも強い言葉だから敢えて説明はしないけれど、自戒の念として残しておきたい。
私がたとえ誰かに期待し、そして失望したとしても、相手を責めることなく現状を受け入れ、自分の側を改変していきたい。

これは非常に面白いと感じた出来事でした。
意識の外から入力される情報は、五感以外の由来もあることを思わせるような。
何かを「ふと」気づくような時はもう少し意識を研ぎ澄ませてみたいな。もっと何かが見えるようになるかもしれない。






コミュニケーションにあまり自信がない人間なので取得した情報を活かしてcommitすることに苦手意識があります。
安心して話せる相手としか話すことができていない(仕事は勿論別ですが)。
結果的に自分の中に「相手の像」を結ぶことで、理解したと納得してしまう。
そんなもの、自己を投影した傀儡に過ぎないのではないか。歪んだもうひとつの自分でしかないのではないか。
いや、どんなに深い会話を重ねたところで像は像でしかないのはわかっているのだけれど、像の手触りにリアリティがほしい。ただその衝動だけを抱えているのかもしれません。
いやはや、全く困った独り相撲だ。
どうして星を眺めているだけで満たされていられないのか。
「本当の自分なんてない」のと同様にきっと「本当のあなた、本当のきみ」もいない筈なのに。
私はいったい何を知りたいのだろう。
ね。

hook

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台風明けの、見たことのないような濃厚な朝焼けの、妖艶な美しさに驚いて何枚も写真を撮ってしまいました。
影絵のように浮かび上がる建物たち。
世界の外側から景色を眺めているような気分になる。
でも本当は、私もこの赤に呑み込まれた一部なのだ、そんな事を思いました。


昨日はうっかりあるツイートを消してしまい、ツイートがツイログに残っていないかなと該当する年月を遡りました。
2015年の5月。ほんの1年半前のこと。
結果的にそのツイートはやはり失われてしまったようでみつからなかったのですが、その代わり、この1年半の来し方について思いを馳せる機会を得ました。とても有意義な時間をもつことができたように思います。この1年半は自分にとって殊の外、変化を感じた期間だったのです。
新しい幾つかの出逢いがあり、仕事の所属部署が変わり、哲学する人達の考え方に触れものの見方に変化が生まれました。ついでに言えば、Twitterの運用もかなり変えたかな。情報発信、つまりキュレーションすることを辞めましたね。キュレーションめいた(私よりもずっと素晴らしい)情報を流してくれるアカウントが爆発的に増えたと感じ始めたのもちょうど1年半ほど前のことです。
それよりは「私にしかできない言葉や感性の発信の方が求められているのかもしれない」と。
世界にふたつとない(はずの)それらの発信、価値が高いとは言い切れないけれど。そして求められているからツイートするわけではないのだけれど。でもどうせならたくさんの人が楽しいと感じてくれる方がよいな。


今日もフックを仕掛けてる。
いつかの自分がここに辿り着けるように。

空へ。

昼間に外を出歩いていないので夕刻の空気から類推される雰囲気だけ感じているけれど、今日は夏が帰ってきたような1日だったみたいですね。
夜のこの雰囲気が既に懐かしくすらあります。

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朝方、向日葵かなあ?と思って撮影した写真。
これからまた夏がくればよいのに、と思う程度には夏がすき。


ふと触発されて黄金率のような受動的な美への感覚について考えていました。有無を言わさず「美しいと感じさせらる感覚」について。
多くの人に備わっている美への共通感覚、例えばそれは生命の維持に関わるような生理学的要因から発生する感覚だったりするのかもしれない。必然としての美。先天的獲得形質としての。

調べてみると、神経美学という学問領域があるらしい。

脳には「感覚運動回路」「感情と報酬の回路」「意味と概念の回路」があり、この3つが美的経験を作っている。

http://gigazine.net/news/20150715-what-beauty-is/


「美しいと感じるもの」に対しては依存性をもたらさない種類の報酬系が働き、快の感覚を与えるという可能性も考えられているよう。
つまりは「美しさを感じること」そのものが、生きていく上である程度の「生きやすさ」を与えてくれるという事なのかもしれない。
他にもデフォルトモードネットワークのトリガーとして働くという説もあるようで、なかなか興味深い。




ここで言いたかったのは
「わかり合うためには共通するレベルの知識を持ち合わせた上でお互いが理解できるまで見解を擦り合わせること」
が必要なんだけど、
「ある程度までわかりあえるまで話につきあってもらうのは莫大なコストがかかりますよ、最初から気が合うひとなら工数少なくてすむけどね」
という話。
相手に対して愛情があるとか、わかり合う事で知識が深まるだとか、何かしらのメリットがない限りはなかなか話あうことができない。世界はシビアだと感じますね。
話したいと思うひとがいるなら、自分自身のレベルを高めなければならない、ということ。
まあ、考え方の違いだとか性格が合う合わないなどの複合的なエレメントもそこに深く関わってくるわけで、自身を高めたところで理解しあえるという訳ではないのですけれども。

金木犀、気がつけば空気中にすべての香りをはきだして、力なくはらはらりとこぼれおちていますね。
小さな小さな星のような形の花びらを掬い上げて空に投げたい。愛しい。

道ゆき。

建物から外に出る度に、空気が甘く香る季節になりました。
金木犀の花は少し離れると枝に対してひと房が塊で巻き付くように咲いているかの如く見えるので、その様がせっせと花粉を集める蜜蜂に似ている気がして愛しさを感じるのです。
もうすぐ降るように散るのも楽しみだな。橙色の絨毯、暖かみのある道ゆき。
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「どんなものに惹かれますか? 」
そう問われて答えてから、改めて思う。
何かに惹かれるその理由は様々だけれど、私にとって心惹かれるものとは、憧憬や尊敬であったり、自分にないものを埋めるといった願望の裏返しであることが多いような気がします。
コレクター気質であるところの背景にはそのような欠失の補填的意味合いも潜んでいるかもしれない。
何かを取り込んだら自分のものになるような思いがどこかにある。そんなもの、幻想なんですけれどね。

何かをこねこねと考え続けていないと溺れてしまうよ。
生きるための水なのにその水で溺れるようなものだけれども。

「理解」についても同様に思う。
解ろうとすることを投げた瞬間、真っ白になる。
理解できないということはどこか、諦めに似ているように思っている。
「もういいか」といってしまうような自分と闘えるようになりたいのです。


窓を開けて眠りたいな。
橙色の夢にひたひたと満たされたい。

self-reliance

ウォーターハウス氏の描く女性の絵は緻密で柔らかでぼんやりと霞んだ背景に溶け込む事ない存在感があるのに、どこかしら、生と死の境目にあるかのような、脆く儚い雰囲気を纏っていると感じます。
頬にさす赤みは確かな生を感じさせるのに、光の少ない虹彩は虚ろに翳る。
その眼に本当に対象を映しているのか。

画集にはハムレットのオフィーリアをモチーフにした絵もありました。
そうか、私ミレーのオフィーリアのような絵がわりと好きなんだな、と気づいたり。
私はネクロフィリアではない(と思う)のですが、生死の境を浮遊する魂のような覚束ないものに心惹かれる傾向があるようです。
理由は、わからないけれど。


「自立していて灰汁が強くない女性アカウント」として当アカウントが某人におすすめされていたようで、そんな風に勧めて頂けるとは恐縮かつありがたいなあと思いつつも、私なんぞ自立には程遠いという自覚があります。
Twitterにめちゃくちゃ依存してますしね。

しかし自立とは何ぞや?と考えたときに想い描く姿は様々でしょうし、何かしら私の一部をそのように解釈してくれたのかなと考えると嬉しい気持ちにもなります。はて、どのあたりがそうみえたのだろう。勧めてくれた方に訊いてみたい。

私が思う「自立している人」とは「迷いや悩みがあったとしても(適切な意見を取捨選択した上で)自分で答えを見つけられるひと」そして「出した答えに対して責任を引き受けられるひと」というイメージ。
そしてもうひとつ加えるならば「自分のなすべき事を為している」ということかなあ。
それが全てではないし正解ではないけれど。
私はそんな風になりたいな。なりたい。



昨夜は体調が悪く、15時間ほど間欠的に眠りと覚醒とをさまよっていたのですが、数多の夢の中できちんと覚えているのはこのシーンだけでした。今でも思い出すとドキリとします。

恐る恐るコンコン、とノックしてみて反応が返ってくるのって嬉しい。私は愚かな増幅機関だ。
幸せの閾値が低いのかな。小さな事実に悦びを見出だして一人遊びしてしまう。
何度も何度も、巡りめぐる。
微睡んでいるのは現実において、なのかもしれない。

焦点距離

雨ゆえに遮断される感覚と、雨だから増幅される感覚があるなと思う。
例えば湿気を含んだ空気は遠くの音をよく伝えるけれど、雨が降り始めるとそれらはかきけされてしまうな、とか。
舗装道路のみずたまりを飛び越して初めて、地表の歪みに気がついたり。
自分の身体機能の幾つかが拡張され、または閉塞することを考え、選り分けながら歩くのです。

the HIATUSのNew albumに収録されている『Clone』という曲を聴きました。
歌詞に出てくるcloneの正体が何であるのかは明かされていない。自分とよく似た誰かの話なのかもしれない。違うかもしれない。
私は、私と鏡写しのような私自身についてなのではないかと思ったのです。
君とは即ち、自分自身を想定して以降の言葉を紡いだ。
でも自分とよく似た何かもまた、「君」であるのかもしれない。


時間が経ってしまったけれど、深井さんのblogを読んで思ったことを書くタイミングを逃してしまっていた。
何度か読み返してみて、それから自分の書いた言葉も見返してみて、改めてうん、そうだなあと納得した。自分のために生きることと他者のために生きること、その2つに厳密な境界を引くことは難しい。双方ともに主体的なエゴイズムは関与するし、その質に差異はないなと。うーむ。
もっと遠くまで視えるようになりたいな。



ないものを在るようにしてはならない。
ないものは、ない。
それを基準においてすすみましょう。

強さなんてよくわからないけど、あなたが私を強いといってくれるのなら、それでいいのです。
ありがとう。