奥行き
平日の二倍の時間眠ってようやく少し回復。最近連続して眠れない休日が続いていたのできちんと眠れたことは自分にとってとてもプラスだったと思います。
奥行きの感じられる文章というのは素敵ですね。
私にとってのそれは、ひとつの物事に対して安易に結論付けて言いきるようなことをせず、思いつく限りの検討を重ね、その中から確度の高いものを抽出して言及していることが判るような文章のことを指します。下手を打つとそれは時に冗長になりがちだけれど、出来うる限りのスマートさをもって、深みのある文章を書けるようになりたいなあ。
対話することは大切だけれど、独りで掘り下げる時間も同じくらい大切で、必要だと私は考えています。
対話しない方が見えてくるもの。例えばそれは自分で何かを思いついて考える時間であったり、他者との会話を反芻することであったり、他者に向ける感情を整理したりする時間。
つまり、人とではなく自分と向き合う時間をもつということをしていたい。
誰かが思索しているときもまた、不用意に話しかけることでその時間を乱すような気がするので、話しかけるのがちょっと苦手なのかもしれません。
最近は、Twitterでのふぁぼの運用も少し変えようかなと考えています。
誰かの思索に対してふぁぼをつけると、それが暗黙誘導のようになってしまう懸念があると思うのです。肯定材料を、提供してしまう。
私は誰かの承認を得て形成される理論や感情ではなく、自分の心と向き合って獲得した答えを知りたい。他者からの評価に揺るがされないような人は勿論いらっしゃるし、そういう人には遠慮なくガンガンふぁぼつけますけれども。うん。
相手との関係性を維持していくための擦り合わせをしなくていいと思っているわけではないけれど、自分を曲げてまで維持することに何の意味があるのだろう、としばしば考えます。
それは先日も少し触れたけれど、「相手に魅力を感じているのか、それとも相手との関係性を求めているのか」というテーマにもつながります。
私はどうしても、「個」としての魅力が関係性を作っていくというのが理想的なのではないか、と思えてしまう。
「個」として相手のことを好きでいられなければ、その関係性に意味があるとは思えないのです。
私は愛している人に魅力的だと思われたいし、私を愛していてほしいけれど、それは私自身の努力の上に成立する愛であってほしい。依願ではなく。相手の努力でもなく。
プライドの問題なのかなあ。
「何をしたら相手を傷つけるか」は私にはわからないけれど、「自分を守るための攻撃性」と「関係ない人への八つ当たり」は自分の理性と努力で制御できるのではないかと考えているし、そうありたいなという気持ちがある。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月22日
清らかで崇高な心意気とはほど遠く、濁る心があったとしても、前を見て歩きたい。私は私の意思で、他人を傷つけないよう生きていたいな。
綺麗事に言霊を宿して綺麗になりたい。
人工輪廻
今月に入って時間外労働時間が多く、しかも今週は飲み会と懇親会が予定されているため、ここはひとつ体力を温存するつもりで早めに帰宅することにしました。一時間くらいだけど。しかしこの一時間は大きい。無駄にしないようテキパキ動こう。
帰宅の電車も座りたいなと思い指定席特急、しかも運転席のすぐうしろをとったのですが、しゃっとブラインド閉められてしまった・・・うう。そんなに運転手さんガン見してたかしら私。
電車は夜の中を走る。
「その人自身」に魅力を感じるか、それとも「その人との関係性」が重要なのか。その違いは大きい。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月16日
時々この2つを混同している人がいて困惑するのです。
例えばTwitterでとても魅力的なアカウントをフォローし、相手からもリフォローしてもらえたとします。しかし暫く立ってリムーブされてしまった場合、自分もリムーブしてしまうといったケース。
或いは恋愛関係において「もう好きではないのだけれど、独りでいるのが寂しいから別れない」というケース。
どちらも興味が「その人」から「その人との関係性」に移行してしまっている。
興味を抱くとき、自分の感情が「どこに」置かれているのかという意識は常にもっておきたい。
そこに「私が本当は何を求めているのか」が現れる気がしてる。
石黒先生の本にも出てきていたけれど、アンドロイドが故人の姿かたちを引き継いで存在し続ける未来というのは近い将来、本当にあるだろうなという気がしている。
人工知能が故人の思考を受け継いで生き続ける形の輪廻。
もし私という人間の思考を完全再現できる人工知能に私とそっくりな肉体を与えられたのなら、「他者から見た人工の私」は永遠の生を観察されるのだろう。そう考えると、「今生きているこの私」は「私自身の意識」にとっては価値があるかもしれないけれど、他者からみた私が「私にそっくりな人工知能」であっても世界は全く変化がないだろう。
生命とはなんだ。
と、ここまで書いておいて朝になりました。
夜明け前、まだ高く残る月は明るい。
この意識とこの身体をもって、今日という今を精一杯生きましょうか。
行ってきます。
発言の範囲
書きたい気持ちがあるのに胸のなかをぐるぐるめぐるような日々、ようやく抜け出して澄んだ気持ちになっています。
もう大丈夫だという確信がある。
「どうしてそんなに心が綺麗なの」と半ば冗談みたいに会社の先輩に訊かれたのであれこれ考えていた。
私は「汚いものも見えている」のだ。しかしそれらと綺麗なものとを選り分け、そして「綺麗なものだけを抽出している」にすぎない。
その証拠に、私は他人の醜い汚いと(私が)感じる部分についても綺麗な部分と同様に、言及できる。
彼女と私との間で差異があるとすれば、彼女は醜いと感じる部分について言及することを心のうちに留めておけない、つまり発言の範囲をコントロールすることができないというだけのことのように感じている。
もうひとつ違いがあるとすれば、私は「醜い部分もあるのが人間だ」と考えているし、それを理由に他人を嫌うことはあまりない。要素で評価し二項対立するようなことはしない。
自覚があるそれらについて「心が綺麗」と評価されるとなんだかな、と思ってしまうけれど、私はお礼を言いつつ「誉めすぎですよ」とにこりと笑う。あともう少し、巧く生きたい。
@natsukissweet 綺麗、汚いに限らずひとは、基本的に見せたいものだけを提示したい生き物なのかもしれない。しかし舵取りがうまくいかずに弱さや汚さを出してしまうこともある、そんなことを。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月14日
何度か言及してるけど、言うべきこと、言わざるべきことの間のどこに線を引くかにその人らしさが表れると思う。ツイ消しなどにもその人らしさがあらわれると思うのでツイ消しを見かけると私はとても嬉しくなりますね。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月15日
ツイ消しされることで「それをpostした理由」に「それを消した理由」が加えられる。これも「2つのモダリティがつながると理解になる」という話とどこか通底しているように思う。
二点間にはそれらを結ぶ「心の動き」があらわれる。「なぜ消したのか」それが私にとってのツイ消しの面白さなのです。自分が消したときでもね。
今日はひとつ嬉しいことがあった。
初めて見かけたときから彼女が可愛くて聡明で透明に見えていたから、とても嬉しかった。
調和を乱さないよう、そっと離れたところからにこにこと微笑んでいたい。
愛しいひとたちが日々、幸せでありますように。
commit
雨。
2日連続で激しい雨音を聴きながらぼんやりとしています。
野矢茂樹先生の『幸福な人は「必然的に」幸福なのである』、よい言葉だな。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月6日
どのように世界を感じとるかは主体次第であるならば、主体としての「私」も「必然的に幸福」でありたい。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月6日
つらさも幸福も実は同質なのではないか、と考えている。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月7日
何度かここでもTwitterでもこの事について言及しているように思うけれど、つらさを分解していくとただの要素になってゆくと思うのです。
感情から理論への相転移が起きる。そしてこれは可逆性をもつ。
幸福も、おそらく同じなのではないかなあ。
受動的な幸福と能動的な幸福との間に大きな違いはないけれど、後者のようになんらかの出来事に対して積極的に幸福を見出だしてゆくことは自分次第で可能だと思うのですよね。
文脈の取り方次第で結末は変わる。
そういった意味で、つらさもまた同様なのではないか。
そのように考えていたのでした。
期待するから失望する。期待も失望も、相手の中にあるのではない。それらは自分の中にある。故に、引き受けるべきは自分自身である、ということを思う。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月7日
これはあまりにも強い言葉だから敢えて説明はしないけれど、自戒の念として残しておきたい。
私がたとえ誰かに期待し、そして失望したとしても、相手を責めることなく現状を受け入れ、自分の側を改変していきたい。
道を歩いていてふと見上げた一軒家の二階の窓の網戸に大きなトンボが留まってた。面白いな。視界の片隅にも引っ掛かっていなかったはずなのにそういう不思議な偶然に出逢うことって結構あるよな、と思う。もしかしたら「ふと目をやる」その先には常に何かがあるのかもしれない。見えなかったとしても。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月8日
これは非常に面白いと感じた出来事でした。
意識の外から入力される情報は、五感以外の由来もあることを思わせるような。
何かを「ふと」気づくような時はもう少し意識を研ぎ澄ませてみたいな。もっと何かが見えるようになるかもしれない。
@note blogを読みに来てくれるというのは流れゆくTwitterの一部であるよりも踏み込んだ行為だと思うし、私という人間をより深く知りたいと思ってくれるのならそれはとても嬉しいことだなあ。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月8日
@note 私がblogの更新を告知しない理由のひとつは、社会的関係性からのふぁぼは不要であると考えているからで、本当に興味をもってくれているひとだけ、もうワンアクション踏み込んできてくれるのならそれで充分だという思いからきている。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月8日
@note 結果的にその行為がふるいにかけることになるかもしれないけれど、読みにくるこないで相手を選別するような真似はしたくないな。それは「ただそういうものだ」ということ。どちらの関係性に優劣があるという話では、ない。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月8日
相手のバックグラウンドを知ることの最も大きなメリットのひとつは相手の考え方をそこに見いだし、自分の考え方との差異を測るための近道となりうることだと思うのだけれど、共有することを放棄してただのコレクターになるのは自己満足でしかないのだよな、と考えていた。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月8日
相手の好きなものをどんなにたくさん知っていたところで、集めたデータからストーリーを描いて活かさなければ自分の内側に歪んだもうひとりの自分を作るだけになるような気がして。うまく前に進めるだろうか。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月8日
コミュニケーションにあまり自信がない人間なので取得した情報を活かしてcommitすることに苦手意識があります。
安心して話せる相手としか話すことができていない(仕事は勿論別ですが)。
結果的に自分の中に「相手の像」を結ぶことで、理解したと納得してしまう。
そんなもの、自己を投影した傀儡に過ぎないのではないか。歪んだもうひとつの自分でしかないのではないか。
いや、どんなに深い会話を重ねたところで像は像でしかないのはわかっているのだけれど、像の手触りにリアリティがほしい。ただその衝動だけを抱えているのかもしれません。
いやはや、全く困った独り相撲だ。
どうして星を眺めているだけで満たされていられないのか。
「本当の自分なんてない」のと同様にきっと「本当のあなた、本当のきみ」もいない筈なのに。
私はいったい何を知りたいのだろう。
ね。
hook
台風明けの、見たことのないような濃厚な朝焼けの、妖艶な美しさに驚いて何枚も写真を撮ってしまいました。
影絵のように浮かび上がる建物たち。
世界の外側から景色を眺めているような気分になる。
でも本当は、私もこの赤に呑み込まれた一部なのだ、そんな事を思いました。
昨日はうっかりあるツイートを消してしまい、ツイートがツイログに残っていないかなと該当する年月を遡りました。
2015年の5月。ほんの1年半前のこと。
結果的にそのツイートはやはり失われてしまったようでみつからなかったのですが、その代わり、この1年半の来し方について思いを馳せる機会を得ました。とても有意義な時間をもつことができたように思います。この1年半は自分にとって殊の外、変化を感じた期間だったのです。
新しい幾つかの出逢いがあり、仕事の所属部署が変わり、哲学する人達の考え方に触れものの見方に変化が生まれました。ついでに言えば、Twitterの運用もかなり変えたかな。情報発信、つまりキュレーションすることを辞めましたね。キュレーションめいた(私よりもずっと素晴らしい)情報を流してくれるアカウントが爆発的に増えたと感じ始めたのもちょうど1年半ほど前のことです。
それよりは「私にしかできない言葉や感性の発信の方が求められているのかもしれない」と。
世界にふたつとない(はずの)それらの発信、価値が高いとは言い切れないけれど。そして求められているからツイートするわけではないのだけれど。でもどうせならたくさんの人が楽しいと感じてくれる方がよいな。
Twitterを「ミニブログ」と定義すること、遡ってみて初めてしっくりくる。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月5日
@natsukissweet 自分だけが引っ掛ける事ができる、日々の記憶をつなぎ止めるためにばらまかれたフック。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月5日
今日もフックを仕掛けてる。
いつかの自分がここに辿り着けるように。
空へ。
昼間に外を出歩いていないので夕刻の空気から類推される雰囲気だけ感じているけれど、今日は夏が帰ってきたような1日だったみたいですね。
夜のこの雰囲気が既に懐かしくすらあります。
朝方、向日葵かなあ?と思って撮影した写真。
これからまた夏がくればよいのに、と思う程度には夏がすき。
ふと触発されて黄金率のような受動的な美への感覚について考えていました。有無を言わさず「美しいと感じさせらる感覚」について。
多くの人に備わっている美への共通感覚、例えばそれは生命の維持に関わるような生理学的要因から発生する感覚だったりするのかもしれない。必然としての美。先天的獲得形質としての。
調べてみると、神経美学という学問領域があるらしい。
脳には「感覚運動回路」「感情と報酬の回路」「意味と概念の回路」があり、この3つが美的経験を作っている。
http://gigazine.net/news/20150715-what-beauty-is/
「美しいと感じるもの」に対しては依存性をもたらさない種類の報酬系が働き、快の感覚を与えるという可能性も考えられているよう。
つまりは「美しさを感じること」そのものが、生きていく上である程度の「生きやすさ」を与えてくれるという事なのかもしれない。
他にもデフォルトモードネットワークのトリガーとして働くという説もあるようで、なかなか興味深い。
他者の考え方に対する共通解釈は要素の理解と文脈の理解の上に成立すると私は考えているけれど「現在持ち合わせている理解力」だけで近しい解釈をとる事は難しくて、相手から外挿される或いは自らの考え方を否定肯定しつつ獲得していくような考え方の更新の、どちらも必要なんだよな。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月1日
@natsukissweet でもこれって莫大なコストがかかるからそれなりに価値を感じる相手に対してしかできないことでもありますよね。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月1日
ここで言いたかったのは
「わかり合うためには共通するレベルの知識を持ち合わせた上でお互いが理解できるまで見解を擦り合わせること」
が必要なんだけど、
「ある程度までわかりあえるまで話につきあってもらうのは莫大なコストがかかりますよ、最初から気が合うひとなら工数少なくてすむけどね」
という話。
相手に対して愛情があるとか、わかり合う事で知識が深まるだとか、何かしらのメリットがない限りはなかなか話あうことができない。世界はシビアだと感じますね。
話したいと思うひとがいるなら、自分自身のレベルを高めなければならない、ということ。
まあ、考え方の違いだとか性格が合う合わないなどの複合的なエレメントもそこに深く関わってくるわけで、自身を高めたところで理解しあえるという訳ではないのですけれども。
金木犀、気がつけば空気中にすべての香りをはきだして、力なくはらはらりとこぼれおちていますね。
小さな小さな星のような形の花びらを掬い上げて空に投げたい。愛しい。
道ゆき。
建物から外に出る度に、空気が甘く香る季節になりました。
金木犀の花は少し離れると枝に対してひと房が塊で巻き付くように咲いているかの如く見えるので、その様がせっせと花粉を集める蜜蜂に似ている気がして愛しさを感じるのです。
もうすぐ降るように散るのも楽しみだな。橙色の絨毯、暖かみのある道ゆき。
「どんなものに惹かれますか? 」
そう問われて答えてから、改めて思う。
何かに惹かれるその理由は様々だけれど、私にとって心惹かれるものとは、憧憬や尊敬であったり、自分にないものを埋めるといった願望の裏返しであることが多いような気がします。
コレクター気質であるところの背景にはそのような欠失の補填的意味合いも潜んでいるかもしれない。
何かを取り込んだら自分のものになるような思いがどこかにある。そんなもの、幻想なんですけれどね。
私自身が世界を分解し続けていたいし、自分の言葉を構築してその言語で語れるような人になりたい。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年9月26日
何かをこねこねと考え続けていないと溺れてしまうよ。
生きるための水なのにその水で溺れるようなものだけれども。
頭をよくすることはとても難しい。でも、「思考を手放さないための訓練」はできるはず、と考えている。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年9月28日
「理解」についても同様に思う。
解ろうとすることを投げた瞬間、真っ白になる。
理解できないということはどこか、諦めに似ているように思っている。
「もういいか」といってしまうような自分と闘えるようになりたいのです。
窓を開けて眠りたいな。
橙色の夢にひたひたと満たされたい。