遊泳

猫、或いはサイエンス

期待

期待とは相互作用と干渉と負荷の意味を過分に含む。自分の中に問いと答えをもてる人にとって期待という外挿はリズムを乱す要因になりやすいのかもしれない。

期待に応えることに含まれる、優しさと強迫観念。そういった相手への負荷を思えば、おいそれと期待なんてできないよね。だから人は大義名分の元にそれを行使するのだろうか。それとも負荷に対して敢えて鈍感になっているのだろうか。

しかし逆に「期待されたいひと」にとって期待されることとは自分の能力と存在証明の機会であると捉えるのかもしれない。そこに発生する評価を指標にすれば(相手にとっての)自分の価値を把握しやすいと言えるかな。また期待に応えることができれば自分の価値が高まると考えるかもしれない。

そんなこんなで期待することを必ずしも悪いことだとは考えていないけれど、暴力になる可能性に思い至らず、一方的に誰かに期待をかけることはよろしくないなとは感じている。


2013年に交わした瀧岡さんとの会話を思い出した。彼は挨拶に見返りを求めないのだと話していた。無視されても気にしない。最初から返答がくるものという期待はしていないのだと。
私はその考え方に少し驚いて、それから納得し、認識を改めたのでした。
例えばTwitterでのメンションに対してリアクションを返さない人が少なからずいる。
返さない理由が何なのかは知らない。
私がクソリプを飛ばしたからなのか、埋もれてうっかり見落としてしまったのか、心身の不調なのか、そもそも返さないというスタンスなのか。
ただ、あれこれ憂慮したところで答えがないものに答えを求めても仕方ない。

挨拶もメンションも喜捨のようなもの。
そして「私がしたいからそうしただけ」
自分のために生きていたいよ。


この記事を書くために久しぶりにツイログで瀧岡さんとのやりとりを遡っていた。懐かしい。
瀧岡さんとのやりとりまで一人称は名前呼びだったんだな、私・・・黒歴史やな・・・。滅尽!

metronome

私が紙の本を好む理由のひとつに「いつでもパラ読みできる」ということが挙げられるかもしれない。電子書籍だと大体のページ数を記憶しておかなければならないけれど、紙ならば前後の厚みで「あの内容、だいたいこの辺りに書いてあったな」とあたりをつけることができる。
ページ数は、栞が手元にないときに覚えておいて後から読み返すような場合には頼りになるけれど、長期的に記憶しておくための素材としては少し心許ないように思う。
また、紙の本をパラパラとめくる間、目はそこに書かれていることを断片的に認識し、拾い上げているように思う。そういった端的な情報を獲得しやすいということも含め、紙の本の方が書かれている場所の特定をしやすいと私は感じている。
そういえば電子書籍は2次元であり、紙の書籍は3次元であるから、もしかしたらこの違いが圧倒的情報量の違いを産み出しているのかもしれないな。



私が興味あるのは常に、「私とあなた」という一対一の関係らしい。所謂オフ会やら懇親会やらを好まない理由もそこにあるのかもしれない。
元来、ひとと会い話をすることはそれほど苦痛ではなかったのだけれど、いつからこんなに複数人の集まりが苦手になったんだろうな。年々、内向的になっていくように思う。これが逃げや甘えでなく本質的な変化だとよいのだけれど。

以下は備忘録として。





specificity

最近は電車の中で読む本を切らしてしまったときにだけblogの更新している気がするなあ。
しかし区切りとしては悪くないかもしれません。インプットしたてだと胸のなかに読んだばかりの内容が渦巻いてるから書き出すことで整理できそうな気がする。

佐々木閑先生と大栗博司先生の対談本『真理の探求』を読んだのだけれど、その中で大栗先生が意識について語っていたのが興味深かった。
意識は五感を統合し、情報処理を効率化するためのシステムである、という話。
確かにインプットされた五感を意識上で統合して連関及び意味づけることで整理がなされるし、保管するにもアウトプットに繋げるにも、Hubになる場所があったほうがスムースかなとは思う。
後に出てくるホログラフィ原理と構造的に類似していると感じたので、もしかしたら大栗先生はそこからインスパイアされたのかなと思いました。例えば五感を低次元の情報と仮定すると意識は高次元立体像を投影する場になりうるな、という具合に。

しかしそう考えてみると意識の特異性に驚かされますね。意識には次元が存在しない。時系列もない。意識下でそれらは如何様にも扱うことが可能になる。
我々の存在するこの世界が誰かの意識の中にあるかもしれないという説は案外的を射ているのかもしれません。

ベイズ推定で世界を認識してゆくという話やエントロピーの一部を食うことで文明を維持しているというエネルギー問題についての話も面白かった。うん、大栗先生超弦理論の本、もういちど読み直してみよう。


甘えることが苦手な私は、どうしてもこの「侵犯」がこわくて踏み出せない。
でも、赦されるであろう境界を感覚的に掴めたほんの一握りの相手だけは、心から信頼し、甘えることができるのだと思う。
別段、誰かに甘えたいというわけではないのだけれど、甘えられるくらい信頼できる人を増やしてゆきたいという気持ちはある。
厳しい基準で選り分けすぎず、優しい感覚を大切にしていきたいんだ。

主観と客観の不一致

久しくblogをサボっていたせいで日々心に浮かんで書き留めておいた物事がつもり過ぎました。
本来なら一過性である感情をひょいとつまみあげるような趣旨で書いているこのblogですが、気負いすぎるとこういうことになるんだな。
もうすこーしお気楽にゆきましょう。いきたいな。


「私自身が思い描いている自分自身」と
「周囲がイメージしている私という人間」は
たいてい一致していないように思います。
多少一致していたとしても、きっとピタリと同じイメージにはならないでしょう。
そして「そのどちらかが本当の私」という訳でもない。
つまりこの世界には「たったひとりの私」ではなく、「私と関わりがあるひとの数だけの私」がいるように思ったのです。

例えば私と関わりがある人々が抱く私へのイメージを「それは違う、それは合っている」とジャッジすることは不可能なんですよね。どちらが正しいかなんて誰にもわかりはしないのだから。

私が私という人間について言葉や態度で示し、誰かにその表現を投げたとします。その表現を受け止めた人々は各々、自分の知識や経験やその場の感情といったあらゆる複合的な要素をもちよって「私を解釈」しようとする。
その結果、「何千何万の私についての解釈」が生まれゆく。
つまり「私の正体」とはひとつではなく、解釈の数だけ存在するのかもしれない。
そのようなことを考えていたのでした。


しかし、もし自尊感情を傷つけられるような解釈をされたり、この人には曲解や誤解をされたくないなと感じた時には、相手に弁解をすることもあるでしょう。これら主観と客観との解釈の距離を縮めるには、論理的に説明したり、時間を割いて説得したり、証拠を探して提出したりというようにそれなりのコストが求められるので、めんどくさいというネガティブさなどをそこに上乗せしてもペイする位のメリットが必要なんだよな、と思うのでした。


ミシェル・ウエルベックの『素粒子』を読んでいます。イメージしていた物語とはかなり違いましたが、一見空虚で愚かに見えるような人生に落ちている人間のプライドや生きるための論理や欲望への言い訳がゴリゴリと心を削るような作品だと私は感じています。残りあと1/3くらいだけど、どうなってゆくのか楽しみに少しずつ読み進めてる。

天を仰ぐ。
それはきっと、光のように見えるのでしょう。

バランス

大変気持ちのよいお天気で、休日出勤ではありましたがとても気分よく出社できました。
この季節、普段は日が昇る前に家を出て日が沈んでから帰宅する日々なのですが、陽光の射す時間は色鮮やかで暖かく、人々の服装も軽やかだなあといった印象。週末も晴れるとよいな。

プラユキ・ナラテボー先生と魚川祐司氏(ニー仏さん)著『悟らなくたって、いいじゃないか』を読みました。
まず感じたのは非常に実用に沿った内容と構成であるということ。全編通して「マッピング」という言葉がキーワードになっているのだけれど、端的にいうと目的地に到達するまでは様々なルートがあるから、自分なりの地図を描き、自分に合った道を往くのがいいよ、正解なんてないんだよ、という事なのではないかと思いました。
瞑想してみたいけどよくわからなくて飛び込むのを躊躇しているという人には「どのように踏み出せばよいのか」「瞑想したらどのような現象が起こりうるのか」を含め、優しく手ほどきしてくれる内容になっています。また、過去自分に合った瞑想法に出逢えずにがっかりしたような経験がある人には違う道があることをを示し導いてくれます。何より「ガチで悟りに至るところまでは志向しないけれど今現在ある苦しみを何とかしたい人」という人にとってよいガイドの役割を果たしてくれるのではないかと感じました。
仏教思想のゼロポイント」が刊行されてから処々の反応があったようで、それらに対する異論・反論も含め書かれていて、より理解に寄り添う内容だなと私は感じました。
もうひとつの重要なキーワードは「perspectiveを開く=Z軸を立てる」ということ。この話がツイキャスででたときのことをよく覚えています。ニー仏さんの「眼」の絵が、なんとも言えぬ味があったこともよい思い出です。「私と対象との関係性を俯瞰してみることができるようになる」ということなのですが、これは本当に難しいことですよね。容易に物語に呑み込まれてしまいそうに、なる。「今、自分が何をどう感じているのか」に気づき「それを客観的に把握すること」ができるようになれば心穏やかでいられる事が増えるかもしれないな。

今は井筒俊彦さんの『イスラーム文化』を読んでいる途中なのですが、イスラム教は仏教思想と根本から違い過ぎていて驚きの連続です。
そもそもイスラム教は、アッラーが全てを産み出したと考えるので因果関係というものを是としないそうで。研究とかどうするんだろ。
改めて自分の思想のルーツ、在り方は仏教思想に深く根づいているのだなと、感じています。信仰がなくても、それらは知らないうちに思考のベースになっていることに気づかされる。


思考と感覚を疎かにするような反射的反応で雑に対応しないよう、日々を丁寧に重ねていくことを、自分に課していきたい。
スピードとクオリティのバランスを忘れないこと。

時々破れ。

one day diaryの家田さんご夫婦に(昨日)娘さんが産まれたという嬉しい報せを受けてのblog更新。
1024、素敵な数だし覚えやすいな。
お祝いもって駆けつけたい気分。1024っていうタイトルの曲作らないのですか、家田さん(1213とごっちゃになるかな)。

たった1つと1つの細胞が融合して分裂して個体を形成するの、どんなに発生学が進歩して機序が解明されつつあっても、やはり神秘的だなあと感じます。意識は果たしていつ宿るのだろう、なんて考えたりする。とても不思議で、そして素晴らしいことですね。
本当におめでとうございます。


この世界は数多の矛盾が散らかり因果も法則性も見いだせないようなランダムさがランダムなまま成立しているようにも見える。でもそれは自分が法則を見いだせていないだけなのかもしれない、そう考えると矛盾も考え方の中に組み込んでおいた方が得策な気がする。矛盾を含んだまま、解るところからマルチタスクに処理していくイメージ。
勿論、1つの統一された法則に収束すれば、それらはすっきりと理解しやすく美しく見えるだろうけれど、世界ってそんなにシンプルにできているだろうか。


そういえば、情報のbitが抹消されるとエントロピーが増大するという考え方があるときき、面白いなと思いました。
逆に、閉じられた状態に於いて情報bitを消費しないでいればエントロピーは平衡に近い状態を保てるのかな。エネルギーのように形を変え、循環させて再利用するような。
イメージとしてはバイオスフィア。
しかし実際はバグとか外挿条件によって平衡状態に破れが生じるだろうし、難しいのだろうな、なんてことを考えていました。
そもそもこの世界自体が閉じられた状態時々破れ、であるような予感はあるのだけれど。いや、なんの根拠もない戯れ言です。

うちの猫たちは甘えん坊なので帰宅するとぴやっと飛んできてはにゃあにゃあするのですが、黒猫の方はお返事がとても上手で、名前を呼ぶと必ず応えてくれます。
今日も「めいたん」「にゃあ」「めいたん」「にゃあ」「めいたん」のくだりを20回ほどやりましたが永遠に続けられそうでした。
負けるなあ・・・

私のマインドスフィアも時々破れが生じるのでちくちくと縫い合わせてとじて、またエネルギーを充填したりしてる。破れめからこぼれだしたエネルギー、せめて代わりに誰かを充たしていられればよいのだけれど。なんて、やっぱり何かに影響したいきもちがあるんだなあ。

おはよう、ただいま、おやすみなさいよい夢を。繰り返し日々積み重ねて生きてゆくのです。

奥行き

平日の二倍の時間眠ってようやく少し回復。最近連続して眠れない休日が続いていたのできちんと眠れたことは自分にとってとてもプラスだったと思います。

奥行きの感じられる文章というのは素敵ですね。
私にとってのそれは、ひとつの物事に対して安易に結論付けて言いきるようなことをせず、思いつく限りの検討を重ね、その中から確度の高いものを抽出して言及していることが判るような文章のことを指します。下手を打つとそれは時に冗長になりがちだけれど、出来うる限りのスマートさをもって、深みのある文章を書けるようになりたいなあ。


対話することは大切だけれど、独りで掘り下げる時間も同じくらい大切で、必要だと私は考えています。
対話しない方が見えてくるもの。例えばそれは自分で何かを思いついて考える時間であったり、他者との会話を反芻することであったり、他者に向ける感情を整理したりする時間。
つまり、人とではなく自分と向き合う時間をもつということをしていたい。
誰かが思索しているときもまた、不用意に話しかけることでその時間を乱すような気がするので、話しかけるのがちょっと苦手なのかもしれません。
最近は、Twitterでのふぁぼの運用も少し変えようかなと考えています。
誰かの思索に対してふぁぼをつけると、それが暗黙誘導のようになってしまう懸念があると思うのです。肯定材料を、提供してしまう。
私は誰かの承認を得て形成される理論や感情ではなく、自分の心と向き合って獲得した答えを知りたい。他者からの評価に揺るがされないような人は勿論いらっしゃるし、そういう人には遠慮なくガンガンふぁぼつけますけれども。うん。


相手との関係性を維持していくための擦り合わせをしなくていいと思っているわけではないけれど、自分を曲げてまで維持することに何の意味があるのだろう、としばしば考えます。
それは先日も少し触れたけれど、「相手に魅力を感じているのか、それとも相手との関係性を求めているのか」というテーマにもつながります。
私はどうしても、「個」としての魅力が関係性を作っていくというのが理想的なのではないか、と思えてしまう。
「個」として相手のことを好きでいられなければ、その関係性に意味があるとは思えないのです。
私は愛している人に魅力的だと思われたいし、私を愛していてほしいけれど、それは私自身の努力の上に成立する愛であってほしい。依願ではなく。相手の努力でもなく。
プライドの問題なのかなあ。



清らかで崇高な心意気とはほど遠く、濁る心があったとしても、前を見て歩きたい。私は私の意思で、他人を傷つけないよう生きていたいな。
綺麗事に言霊を宿して綺麗になりたい。