遊泳

猫、或いはサイエンス

精神的負債の一時預り。

なんとなく本を読む気になれなくて、明けましておめでとうございます。
ついでであるかのようにご挨拶しておりますが心を込めて。ううもう少し休んでいたかった。
今日から仕事始めです。

憧憬する相手に認められたいという気持ち、つい最近自覚したばかりだから私にとってTwitterで見かけたそのテーマはタイムリーな話題でした。相手の目に留まりたくて足掻いて空回りする日々から離脱しかけているところ。なかなかみっともない感情なので、もう少し整理して格好つけてからツイートしたかったのだけれど、ついつい流れに乗ってしまいました。言葉が溢れてしまったのですね。心に収まりきれずにね。


憧れる相手がライバルでもない限り、必ずしも同じ土俵に上がって認められる必要性はないのですよね。時々私はその罠に陥るのですよ。憧れの相手が見ているものを私も見たい、採り入れたい、その人のようになりたいという気持ちが強いのかな。同じ目線で語り合えるようになりたくて、必死になってしまう。その事に最近ふと気づいたのです。


同じ土俵じゃなくてもいい。自分の「やり場」でのステージを上げていくことによって、その人の前で胸を張っていられることを目指せばよいのかな、と漸く思えるようになってきました。


もし憧れの人の世界に於ける構成要素のひとつになりたいのなら、相手の心を変えるのではなく、必要不可欠な存在になることを目指したい気持ちが今はあります。相手の欠けた部分をそっと補うような。或いは、弱い部分を補強するような。適切な時に適切に働く遺伝子として組み込まれたい。そのためには自分の生きる道をより充実させていくことが最も手っ取り早いのではないかなーと考えています。
お互い違った楽器だけどセッションしようぜ、ってな具合にね。素敵な曲を奏でましょう。



そういえば年末にマリーアントワネット展に行ってきました。
個人的に芸術としての魅力はあまり感じなかったのですが、史実を伝える資料としては画期的で素晴らしい材料が揃っていたのではないかと思います。
処刑直前の妹に宛てた手紙など、死へ向かう覚悟と矜持を感じさせる内容で、彼女へのイメージが一新しました。
なかなか面白かったです。
会期中に上野にもゆきたいのだけれどもうすぐ終わりだから混んでるかな、クラーナハ展。
三連休、楽しみましょうぞ。

では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

不定形な認識と感情

2016年最後のご挨拶。

今年読みに来てくださった皆様、ありがとうございました。


そのような「認識」もまた、こうして知覚し、言葉にして切り出すことで初めて実存を与えられるのだな。
世界は線を引かなくても存在している。
けれど切り出さなければ誰かに伝えることは難しい。
ただそのことばかりを言い続けてきたようにも思います。

自分の中にある不定形な認識や感情にただただ、言葉を与える日々。
抽象的なままでは受け入れられないような心に言葉という居場所を与えることで、折り合いをつけたかったということなのかもしれない。

そんな「私というフィルタを通してみる世界」を読んで下さってありがとうございました。
皆様におかれましても、よいお年を迎えられますように。

幸福という性質

今年はギリギリ29日まで働く予定だったのですが、予定よりも早く実験が上がったのでええい!と休みを繰り上げてしまいました。しかし少しばかり無理をしたせいで最終日に体力気力を使い果たし、帰宅した後、床で寝落ちる羽目に。
自堕落、いくない。


幸福の話をしよう。
いや、幸福に限った話ではないのだけれど。

性質とはある指向性をもつもの、或いはその前駆体に含まれる。類似した性質をもつもの同士は誘引しあい、フィルタリングされ、集積してクラスタ化されてゆくのだと考えている。
幸福という性質もまた、そのような特徴をもつイメージがある。

キセノンちゃんが言う「人は満たされている人の元に集う」とは「幸せな(性質をもつ)人の元に幸せな(性質をもつ/もちたい)人が集う」という事だ。
それは共鳴しあう人どうしが誘引しあい、互いの感情にアクセスすることで増強、或いは減弱しながら精製されてゆく「感情の結晶」のことである。

肯定も否定も、感情の精製過程に於いて紙ヤスリの働きを示す。
余剰を削ぎ落とし、指向性を高める。それはまるで、結晶の純度を上げるための道具のようだ。
同様の性質をもつ人が集えば肯定に傾き、意見を強固なものにする。
もし否定があったとしたら、目の細やかなやすりをかけるように修正に用いられる。
異端分子を排除しながら。

あの頃のキセノンちゃんは純度のことしか考えていなかった。フィルタリングの暴力性について無頓着であったのだと今なら言える。

現在のキセノンちゃんは、こう考えている。
「異端分子を異端分子のままに呑み込みつつも、幸せでありたい」

純度を上げずとも一切をあるがままに呑み込んでしまうことができたなら、どんなに素敵だろう。
そのための余裕や安定を含んだ土台を自分の中に構築しておきたい。
幸福という土台を、自分の中に。
やはり私は幸せでありたい、そう思う。






「執着を棄てる」ことについてですら「執着しない状態」に、いつか辿り着きたい。

期待

期待とは相互作用と干渉と負荷の意味を過分に含む。自分の中に問いと答えをもてる人にとって期待という外挿はリズムを乱す要因になりやすいのかもしれない。

期待に応えることに含まれる、優しさと強迫観念。そういった相手への負荷を思えば、おいそれと期待なんてできないよね。だから人は大義名分の元にそれを行使するのだろうか。それとも負荷に対して敢えて鈍感になっているのだろうか。

しかし逆に「期待されたいひと」にとって期待されることとは自分の能力と存在証明の機会であると捉えるのかもしれない。そこに発生する評価を指標にすれば(相手にとっての)自分の価値を把握しやすいと言えるかな。また期待に応えることができれば自分の価値が高まると考えるかもしれない。

そんなこんなで期待することを必ずしも悪いことだとは考えていないけれど、暴力になる可能性に思い至らず、一方的に誰かに期待をかけることはよろしくないなとは感じている。


2013年に交わした瀧岡さんとの会話を思い出した。彼は挨拶に見返りを求めないのだと話していた。無視されても気にしない。最初から返答がくるものという期待はしていないのだと。
私はその考え方に少し驚いて、それから納得し、認識を改めたのでした。
例えばTwitterでのメンションに対してリアクションを返さない人が少なからずいる。
返さない理由が何なのかは知らない。
私がクソリプを飛ばしたからなのか、埋もれてうっかり見落としてしまったのか、心身の不調なのか、そもそも返さないというスタンスなのか。
ただ、あれこれ憂慮したところで答えがないものに答えを求めても仕方ない。

挨拶もメンションも喜捨のようなもの。
そして「私がしたいからそうしただけ」
自分のために生きていたいよ。


この記事を書くために久しぶりにツイログで瀧岡さんとのやりとりを遡っていた。懐かしい。
瀧岡さんとのやりとりまで一人称は名前呼びだったんだな、私・・・黒歴史やな・・・。滅尽!

metronome

私が紙の本を好む理由のひとつに「いつでもパラ読みできる」ということが挙げられるかもしれない。電子書籍だと大体のページ数を記憶しておかなければならないけれど、紙ならば前後の厚みで「あの内容、だいたいこの辺りに書いてあったな」とあたりをつけることができる。
ページ数は、栞が手元にないときに覚えておいて後から読み返すような場合には頼りになるけれど、長期的に記憶しておくための素材としては少し心許ないように思う。
また、紙の本をパラパラとめくる間、目はそこに書かれていることを断片的に認識し、拾い上げているように思う。そういった端的な情報を獲得しやすいということも含め、紙の本の方が書かれている場所の特定をしやすいと私は感じている。
そういえば電子書籍は2次元であり、紙の書籍は3次元であるから、もしかしたらこの違いが圧倒的情報量の違いを産み出しているのかもしれないな。



私が興味あるのは常に、「私とあなた」という一対一の関係らしい。所謂オフ会やら懇親会やらを好まない理由もそこにあるのかもしれない。
元来、ひとと会い話をすることはそれほど苦痛ではなかったのだけれど、いつからこんなに複数人の集まりが苦手になったんだろうな。年々、内向的になっていくように思う。これが逃げや甘えでなく本質的な変化だとよいのだけれど。

以下は備忘録として。





specificity

最近は電車の中で読む本を切らしてしまったときにだけblogの更新している気がするなあ。
しかし区切りとしては悪くないかもしれません。インプットしたてだと胸のなかに読んだばかりの内容が渦巻いてるから書き出すことで整理できそうな気がする。

佐々木閑先生と大栗博司先生の対談本『真理の探求』を読んだのだけれど、その中で大栗先生が意識について語っていたのが興味深かった。
意識は五感を統合し、情報処理を効率化するためのシステムである、という話。
確かにインプットされた五感を意識上で統合して連関及び意味づけることで整理がなされるし、保管するにもアウトプットに繋げるにも、Hubになる場所があったほうがスムースかなとは思う。
後に出てくるホログラフィ原理と構造的に類似していると感じたので、もしかしたら大栗先生はそこからインスパイアされたのかなと思いました。例えば五感を低次元の情報と仮定すると意識は高次元立体像を投影する場になりうるな、という具合に。

しかしそう考えてみると意識の特異性に驚かされますね。意識には次元が存在しない。時系列もない。意識下でそれらは如何様にも扱うことが可能になる。
我々の存在するこの世界が誰かの意識の中にあるかもしれないという説は案外的を射ているのかもしれません。

ベイズ推定で世界を認識してゆくという話やエントロピーの一部を食うことで文明を維持しているというエネルギー問題についての話も面白かった。うん、大栗先生超弦理論の本、もういちど読み直してみよう。


甘えることが苦手な私は、どうしてもこの「侵犯」がこわくて踏み出せない。
でも、赦されるであろう境界を感覚的に掴めたほんの一握りの相手だけは、心から信頼し、甘えることができるのだと思う。
別段、誰かに甘えたいというわけではないのだけれど、甘えられるくらい信頼できる人を増やしてゆきたいという気持ちはある。
厳しい基準で選り分けすぎず、優しい感覚を大切にしていきたいんだ。

主観と客観の不一致

久しくblogをサボっていたせいで日々心に浮かんで書き留めておいた物事がつもり過ぎました。
本来なら一過性である感情をひょいとつまみあげるような趣旨で書いているこのblogですが、気負いすぎるとこういうことになるんだな。
もうすこーしお気楽にゆきましょう。いきたいな。


「私自身が思い描いている自分自身」と
「周囲がイメージしている私という人間」は
たいてい一致していないように思います。
多少一致していたとしても、きっとピタリと同じイメージにはならないでしょう。
そして「そのどちらかが本当の私」という訳でもない。
つまりこの世界には「たったひとりの私」ではなく、「私と関わりがあるひとの数だけの私」がいるように思ったのです。

例えば私と関わりがある人々が抱く私へのイメージを「それは違う、それは合っている」とジャッジすることは不可能なんですよね。どちらが正しいかなんて誰にもわかりはしないのだから。

私が私という人間について言葉や態度で示し、誰かにその表現を投げたとします。その表現を受け止めた人々は各々、自分の知識や経験やその場の感情といったあらゆる複合的な要素をもちよって「私を解釈」しようとする。
その結果、「何千何万の私についての解釈」が生まれゆく。
つまり「私の正体」とはひとつではなく、解釈の数だけ存在するのかもしれない。
そのようなことを考えていたのでした。


しかし、もし自尊感情を傷つけられるような解釈をされたり、この人には曲解や誤解をされたくないなと感じた時には、相手に弁解をすることもあるでしょう。これら主観と客観との解釈の距離を縮めるには、論理的に説明したり、時間を割いて説得したり、証拠を探して提出したりというようにそれなりのコストが求められるので、めんどくさいというネガティブさなどをそこに上乗せしてもペイする位のメリットが必要なんだよな、と思うのでした。


ミシェル・ウエルベックの『素粒子』を読んでいます。イメージしていた物語とはかなり違いましたが、一見空虚で愚かに見えるような人生に落ちている人間のプライドや生きるための論理や欲望への言い訳がゴリゴリと心を削るような作品だと私は感じています。残りあと1/3くらいだけど、どうなってゆくのか楽しみに少しずつ読み進めてる。

天を仰ぐ。
それはきっと、光のように見えるのでしょう。