遊泳

猫、或いはサイエンス

写実

水曜日に有給休暇を取得して、鎌倉を訪れました。
主目的は井筒俊彦先生のお墓の傍でちょっと手を合わせたいという名目。
無事行って参りました。円覚寺、雲頂庵。
但し雲頂庵は関係者以外立ち入りが禁じられているため、外側からその雰囲気と、お墓から見える景色を眺める程度なのですが。
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北鎌倉の駅を見下ろす位置、急峻な山道を登った先に眠っていらっしゃいました。遠くに山々の桜が咲き乱れ、静かで美しい景色に囲まれて。合掌一礼。


島田虔次氏の『朱子学陽明学』を読んでいます。
先日ニー仏さんがJ・D・サリンジャーフラニーとズーイ』の読後「オチが陽明学」という感想を書いていらしたのがきっかけ。そのあとツイキャス陽明学の入門書として上記を挙げていたので、読んでみようかな、とその場でAmazonでポチってしまいました。まだ序盤なので感想を述べる域ではないのですが、ちらほらと気になるキーワードが脳にフックして注意喚起がぶらさがります。noteにつけた一文など、物理学的観点からみても現代に通じる言葉。奥行きの深さを感じます。よく咀嚼しないと味がわからなくなりそうなので噛み締めながらゆっくり時間をかけて読み解いてゆこうと思います。


しかし江ノ電はよいですね。
時に路面電車、時に生活圏すれすれの走行、突然の海、かと思えば山際。エンターテイメント性が高すぎておちおち読書してられない。
江ノ電といえば紫陽花が有名で、桜のこの季節に乗車したのは初めてでしたが、時折姿を見せる山桜のたおやかさにもなかなかの風情がありました。

江ノ電は観光客が多く、しかし一時間に5本程度、最大4両編成(時々2両)なのでとても混む電車です。走行中に海を見たければ、藤沢駅発鎌倉方面行きの場合、進行方向右側の座席に座った方がよく見えるかと思います。背後を振り返る形になりますが、反対側だとぎっしり立った乗客に阻まれて見えないことが多いので(経験則)。

帰りは七里ヶ浜駅で下車して、カレー屋の珊瑚礁本店さんでお夕飯。
厨房が見えるカウンタ席にてドライカレーを注文したのですが、鉄フライパンを時々揺さぶりながら軽くあおり、具材を量ったあとタイミングを見計らって投入するなど、とてもとても丁寧に調理してくれているのが観察できました。
深みのあるスパイシーなライスに少しキーマカレー?がかかったスタイル。刻みレタスのサラダもシャキシャキで美味しかったです。

珊瑚礁本店、ドライカレー
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七里ヶ浜
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言葉は心に絡み付いた種々の感情と相性がよく、感情から少し距離をおいた今の状態では出てくる言葉の種類が少し変わったように感じています。
非立体的な写実画を描いているようだ。
でも、今はそれでいい。
自分にできることを着実に、ひとつずつ、積み重ねてゆくだけ。その果てに見える景色は、その時になれば描けるようになるでしょう。
美しい絵でなくてもよいよね?

雨宿り

世界が止まっているのではないかと思うくらい、購読しているblogがひとつも更新されない日々が続いた。はてなブロガーは端から順に消され、次は自分の番なんじゃないかと一瞬頭を過る。私の生命は消されずとも言葉は消えた。書いては消すを繰り返す記事。書きたいと思うことほど文字にならない現象。何かを書くためにはある程度思考を整理し、文法やら表現やらを駆使して相手に伝わるように体裁を整える。そのどれもが空中回廊にぶらさがるつり橋のステップ板のよう。踏んだ端から谷底へほどけ落ちてゆく。


どんな文章に魂がこもっていてそうでないかなんて観測で見抜けるものじゃないなと思う。自らを「作家である」と自称する某女性ライターを揶揄する記事を書いた商業ライターは、思ってもいないことでも依頼を請けたのなら書く、時には泣きながらでも書くと記していた。
思ってもいないようなことを泣きながら書く。そこに魂は込められていないと言えるのかな。皆目わからないな。


理由はわからないけれど心惹かれる何かを放つひとたちを磁性という名前の宝箱に集めぼんやりと眺める。そこには癒されるもの、奮起させられるもの、明晰なもの、毒があるもの、発見があるもの、抉られるもの等々、傾向も統一性も感じさせない個性が並び、私の何処かにある扉を開けたり閉めたりする。
Twitterのタイムラインは自分の好きなものを集めた偏った世界といわれるけれど、そこに生身のヒトが介在する限り、社会性がうまれる。たとえば義理フォロー、たとえば言及したいことをのみこむ気遣い。たとえばリムーブを躊躇う心、たとえば巻き込みリプライをしないなど暗黙のルール。社会性から逃れたくてサブアカを作ったりリストに集めたりしても、また新たな社会を産みだすだけ。幾つも並立する、多数のヒトの、或いは自分自身の無数の「社会」。
心がニュートラルな間はなんてことなく受け入れて乗りこなしていけるようなそんな「並立社会」でも、弱っていると居場所をなくす。どこにいればよいのかわからなくなる。だけどそもそも「居場所」ってなんなんだろうな。空いた時間をやり過ごすあいだ、他の人間と触れあう場?それ、私に必要だったかな?そして本を読む私。幼い頃から何も変わっていない。エニアグラムでは20歳以前の性格が当人の本質であるとしているけれど、こういう時にそのことを思い出す。本質ってなんだ?本質は本当に変化しないのか?20歳で本質がfixされるとするならどんな因子が関与するのか。それは不可逆的な現象なのか。因子の関与があるとして、作用点はなぜ20歳でなければならないのか。疑問しかうまれないんだ。
ただ、足元が覚束ない時は本を読む。その性質は確かに、20歳以前の私のままだ。何かを創造するタイプではないんだな。もしかしたら変わりたくなかった、変わろうとしなかった、それだけの事なのかもしれない。


知性でしか蓋然率は上がらないという事実もまた、そこにはある。だから知性を求めてしまうんだ。
如何に認識するか。
認識の仕様を変えてゆくことが、即ち人間をアップデートするということなのだろうから。

雨宿りする野良猫をみかけました。
よい休日を。
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他愛のない何か。

桜がちらほらと綻びはじめた東京都内。週末までに満開は難しそうだけど、そろそろお花見しながらお散歩できそう。

Twitterに投稿した内容をほぼblogに転載という横着を致します。
まあ深々夜に投稿したし、殆どご覧になっている方はいなかっただろうと予測している。
アルフォンス・ミュシャ国立新美術館での展示備忘録。

帰宅してから三時間ほとかけて作品集を眺めてしまった。キャプションだけでは見えてこなかった作品背景とミュシャの想いが伝わってくる。

ミュシャチェコスロバキアを解体した当時のナチスドイツにとらえられ、厳しい尋問を受けたことから死期を早めた可能性が囁かれていることを初めて知った。祖国であるチェコを愛し、平和を想いこの一連のスラヴ叙事詩を描いたという背景があったのだけれど、その愛国心が反乱への感情を煽る可能性があるというドイツの見解からそのような扱いを受けたということだった。
諸外国でアールヌーヴォの旗手として成功を収めたその裏にあった祖国への愛国心、それを生きている間に表現したいという想いがミュシャにはあったという。スラヴ叙事詩の一連の作品モチーフからその事を、私も強く感じさせられた。

スラヴ叙事詩の作品、争いによる嘆きの表現はあれども、おびただしい流血や悲惨な光景は描かれていない。一連の作品は平和への架け橋であって欲しいというミュシャの願いが通底して表現されており、そのような描写になったということだった。

しかしミュシャ、これだけの才能がありながら34歳まで鳴かず飛ばずだったというから驚きがあった。プラハの美術アカデミーを受験するも不合格(18歳)、夜間デッサン講座に通いながら工房で働く(19)、働いていた工房が経営難に陥りクビになる(21)。つらい・・・
その後、雑誌の挿絵など細々と仕事をしつつ生計をたて、34歳にして急遽依頼されて描いた戯曲のポスター。これがミュシャの画家人生の明暗を分ける転機となった。ヴィクトリアン・サルドゥ『ジスモンダ』。
この後6年間に亘り戯曲のポスターを描く機会を与えられ、ミュシャは一躍人気画家となったのだった。


勇気が出ますね。私には何の才能もありませんけれども。いやこれは、ていのよい自己防衛手段としての言い訳か。
そういえば先日見かけた芸人さんの「多くの人は宝くじ売り場に並びさえしない」という内容のインタビュー記事を読んだのでした。
確かに「自分はこれで闘えるかもしれない」という期待と思惑を胸にうっすらと秘めつつも、実際にはあれこれ言い訳を述べて人生の何事かにentryしないこと、よくよく考えたら幾つもあるような気がします。お前の期限切れの宝くじを数えよ。はい。

人生に何かを遺したいわけではないけれど、この世を去るときに「あれはよかった」と思えるものを何か1つくらいは掌に握りしめて旅立ちたいかもしれない。その方が気持ちよく終われそうな気がするんだな。誰の役に立たなくてもいいから、自分の心の役に立ちそうな、他愛のない
何か。


知性の次元

空から降ってきた春の欠片がアスファルトに跳ね返り、私を濡らす。
いつのまにやら暖かい。

ここ最近は休みごとに10 ㎞ほど歩くことにしています。あてどもなく歩くとすぐ帰りたくなってしまうので、目的地だけは定め、ルートは気の向くままに。Google地図だけが頼りだけれど、心が誘われる道を見つけたら少し位方角がずれていても構わない。
Google地図様が「左に曲がれよ。左つってんだろ!」としつこくアラートし続けてきても無視する豪胆さが身に付いてきました。あいつ時々適当なこと言うしな。

丘陵地帯に暮らしているおかげでくねくね曲がるアップダウンルートにしばしば出くわす。折り返す度に自分の後ろ姿と出逢えそうだ。
他愛のない話、他人の庭、ビタミンD合成、健やかなる疲れ。





気づきは時に2次元に為りうるんだけれど、この場合の気づきとは、自分はマインドフルな状態を獲得するシーンを想定していた。
ばうむさんには「気づきはちょっとしっくりこないな」と評されたのだけれど。
これももしかしたら、5人くらいに理解されればよい、という類いの話なのかもしれない。

所謂「5人くらいの理解」、頭のよしあしを指す場合と、感覚の一致について述べる場合とに明確な境界がないせいで、云われた側に無用の禍根を遺すようにも感じている。伝家の宝刀を抜き放つ感じ。
ん、これは3人くらいに理解されればいいかな。
たった1人だけに理解ゲームになってきたぞ。むべなるかな。


「世界を拡げる」とは、数多くの人と共通する概念を理解することと、自分1人だけが理解できる事項とが併存して矛盾しない状態なのだなと、ふと思った。
他人の頭の中を覗きたいと思うことがあったとしたら、それは自分との差異を見出だすためか、若しくは恋だね。もしかしたらね。

自己評価

午前中は頭痛がちょっとあり、片頭痛に移行する気配を感じたので、早めにロキソニンを服用。
ついでに肩こりも解消されてしまうからすごい。

年度末なので会社の業績自己評価などというものを提出しなければならず、元来自己評価が低い人間なのでこれがなかなかつらい。よさそうなことを書くたびに「私、調子に乗ってませんかね?」という気持ちになる。でも来期の評価とボーナス額に響くので「えいやー!」と書いてしまう。書いたからにはそうで在らねばならなくなり、自分で自分を追い込んでいるような気持ちになるよ・・・

ひと、なぜ成長し続けなければならぬ、ひと、なぜ・・・(資本主義社会への呪い)

そんなこんなで帰り道にぼんやりと、自分の強みと弱みについて考えていた。
発想の新規性はあまりないけれど、問題の解決や改善能力に優れている。構成力はあるほうだが、矛盾やエラーに気づく能力が低く、事前に抑止する視点に欠ける。
これらの弱点を解決するためにここ一年ばかり、試行錯誤してきた。
発想の新規性を獲得するために既存知識を磐石にすること、専門以外の近い領域についても幅広くカバーすること、それらを臆せず繋げてみること。
読む本のジャンルを拡げた理由のひとつも、そこにある。
矛盾とエラー回避については、とにかく「丁寧に」「集中して」実行すること、それから「(自分への)疑いの目をもつ」「何度でも校正しなおす」こと。
何事に対しても「面倒だな」と思う気持ちを棄てることを目標に、物事に取り組んできた。
少しは改善してきたかな。

丁寧に生きるといった内容のエントリを以前ここに書いた記憶があるけれど、日常生活ももう少し、丁寧に生きたいんだよな。

こうして弱みを自覚して改善することは、私という人格にもコミットされているということなのだなと考える。
会社の業績自己評価が人格を変える。
間違いなくそういう側面はあると思う。
どんな会社に入り、その会社がどんなカラーをもち、どんな考え方をする上司に巡り合うかで変わってゆく何かがある。
せめて受動的でなく主体的に、変わっていければいいなと思う。譲れないところは譲らずにね。

そんなこんなで唸りながらもシートの空欄を、埋めてゆくのでした。

儀式。

先月購入した機械式の腕時計、とても気に入ってほぼ毎日つけています。
毎朝目覚め、麦茶を一杯飲み干してキウイを食べたあと、腕時計の螺子を巻き、スマホ電波時計時間に針を合わせる。
一連の動きが儀式のように流れ、やがて行為が習慣化して自分の一部として馴染んでゆくまでの感覚を味わってる。


儀式的な行為はわりとすき。
行為そのものを愉しみ、慈しむ時間は日常から切り離された特別なものとして愛している。


でも本当は物事の大半を無意識のうちに処置し、その間、ぼんやりと考え事をしたりする時間にしていられたら理想的なんだな。
仕事中にこれをやるとミスしてしまうので、生活という限定した時間での話になるのだけれど。

例えば細かい雑事、メモ等に退避して忘れてしまいたいタイプ。
ToDoや覚えておくべきことは、evernoteや付箋紙等を活用するようにしてる。
「まめに書き留める」と「適宜見返す」という習慣を獲得してしまいさえすれば、他の重要事項のための記憶スペックを空けておくことができる。これを始めてから仕事でも生活でも比較的円滑に行動できるようになったと思う。優先順位もつけやすくなるしね。


機械式の腕時計は精度合わせのために毎日螺子を巻くのだけれど、腕に装着して動いていさえすれば、基本的に止まることはない。適切なメンテナンスを定期的にしていれば、何十年、何百年と残すことだってできる。
この腕時計はオープンハートのフェイスにシースルーバックなので、カチコチとしたムーブメントの動きを目で見ても楽しめるし、腕に着けていると私の動きに合わせ、螺子を巻く感覚が伝わってくる。
本当に、生き物みたいなんだよ。

これから先の人生のほぼ同じ時を過ごすであろう新しい相棒の螺子を巻く。
新しくひとつ加わった、私の朝の儀式だ。

woolgather

kentzさんのblogが自由な感じで面白かったので若干触発され、久しぶりにblogを書いています。
正確に言うと「書き始めた」状態であって書き終わりを担保するものではありません。最後までたどり着けるかなー(この2ヶ月間、何度か書いては下書きのまま放置を繰り返していますゆえ)。

勿論内容にも拠るんだけれど、blogはTwitterのような断片的な投稿とはまた違った方向から人となりを表すなあと改めて感じました。
考えの種をどのように育てて刈り取るかをひとつの文章の流れの中で追うことができるお陰で「なぜその結論に至ったのか」を理解しやすい場合が多いからかな。
私のこのblogも同様に、違う方向から照らされたライトのように、私という人間を立体的に浮かび上がらせてくれているだろうか。


先日読み終えた石黒浩先生/池上高志先生の『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』という本がここ最近読んだ本の中でも格別に面白かったです。
元々は久しぶりにサイエンス方面の本を読みたいと考えて購入したのだけれど、予測以上に哲学的エッセンスに満ちた内容でした。

このエピソードがとても興味深かったです。恐らく人の認知を超えたところには規則性があるのだろうな。 直感というものは、このようにコンピュータが導きだす答えと類似したものではないのだろうかなどと考えていました。法則性を見出だすことをショートカットし、結果のみを連れてくるようなイメージ。

最後の章で池上先生が仰っていた「生命の複雑さとはattracting stateではなく、有限な時間の中で、開かれた状態空間の中に生まれる流れの澱」(要約、p146)という概念、生命体の制限状態と相互性の上でmatureになってゆく様子を綺麗に言い表した言葉だなと感じました。
人はどうしたってinteractiveな情報のやりとりの中で磨かれていく生き物なのだな。スタンドアロンが叶わぬのならせめて冬の夜空みたいに硬質で透明な光のような情報で磨かれてたいなあ。

実はこの本を読む少し前に、「入力刺激は絶対的に足りないことはわかるけれど、まっさらな人工知能を赤ちゃんのように育てることで人を模倣することは可能なのか」という疑問についてばうむさんと議論したのだけれど、本当にそのようなことを研究している人がいるのだな、と嬉しくなりました。心がどこにあるのかという疑問への答えは簡単にはでないだろうけれど、今後のアンドロイド研究の進捗が益々楽しみになりました。



「リアルなあなた」に逢わなくても、私はあなたの二次元情報のみを組み立てて3D化することが可能である。
妄想は容易い。
妄想は優しい。
妄想は裏切らない。
閉鎖空間での拙い遊び。



おや。今日は最後まで辿り着けたようです。
これからも気楽に参りましょう。ではでは。