遊泳

猫、或いはサイエンス

sequencing

「説明が下手だ」というけれど、私にはそうは思えなくて、でもきっとご自分で考えているレベルでの理解の提供には及んでいないということなんだろうな。
その思考は言語の表現範囲を超えたところにあるからではないのだろうか。ふとそんな事を思う。

さて。
人との対話が苦手な原因について考えている。
私はどちらかというと「考えながら喋る」タイプの人間なのだと思う。
ただ結論を全くもたない訳ではなく、そこに至るまでのぼんやりとした道筋はもっている。
可能ならばその道筋を手繰り寄せてうまいこと説明したいと思うのだけれど、人との対話に於いてはペースを慮ったり、相手の考えに応じて予想外の方向へfixされたりする。
これが人との会話を苦手とする原因なのかもしれない。
まずは結論までの道筋、つまり論理の補強が必要ということかな。
簡単そうではないけれど、訓練しよう。

(2回目の)さて。
伝えたいことを巧く伝えられるか否かのもにょりについては置いといて。
抽象化された思考を言語化するにあたって、直接的な描写ではなく間接的な(一般的に直喩であるとか代替イメージと呼ばれる)表現に置換される場面が散見されますが、いつもとてもエレガントだと私は感じています。
息継ぎなしで深海に潜り、一粒の砂金を見つけて戻ってくるような感覚を思います。その瞬間、脳の中では網羅的なシークエンシングがなされているのだろうな。
それはとても、美しい世界だ。