遊泳

猫、或いはサイエンス

バトン

"今日もし前触れもなく突然死が訪れたとしたら"
このことについてよく考える。
例えば誰かと「またね」と別れるとき、「いってらっしゃい」と送り出すとき、また会えるという保証はないという考えが片隅にあり、最期だとしたら相手の記憶に残される自分の姿は笑顔がよいな、と考えてしまう。
下らない諍いや八つ当たりや不機嫌さによって作られた自分の態度が相手の残りの人生にどんよりとした陰を遺してしまうことをどこかで恐れている。

自分が何かをやり残すことは苦しみではないように思う。
何かをやり遂げたところで、どうせやりたいことは湧き出てくるのだ。終着地点のない欲望は解脱でもしなければ果てることなどない気がしている。
研究にしたって、バトンを渡すだけのリレー選手のひとりに過ぎない。
私の存在に意味はあるけれど、ただそうして何かを橋渡しする役どころを演じきれたのならそれが意味そのものを果たすことである。そういう風に考えている。
脇役ポジ。
頼むから主役に抜擢しないでおくれ。

ただ大切なひとたちが、死後の私を思い返すとき、
「なんだかんだ充実した人生を送っていたよね」
そんな風に笑いあって会話ができるような、そんな人生にしておきたいなと思う。
目の前にあるものごとについて、できるだけ後悔しないような選択することも、そのひとつなのかな。