バトン
"今日もし前触れもなく突然死が訪れたとしたら"
このことについてよく考える。
例えば誰かと「またね」と別れるとき、「いってらっしゃい」と送り出すとき、また会えるという保証はないという考えが片隅にあり、最期だとしたら相手の記憶に残される自分の姿は笑顔がよいな、と考えてしまう。
下らない諍いや八つ当たりや不機嫌さによって作られた自分の態度が相手の残りの人生にどんよりとした陰を遺してしまうことをどこかで恐れている。
自分が何かをやり残すことは苦しみではないように思う。
何かをやり遂げたところで、どうせやりたいことは湧き出てくるのだ。終着地点のない欲望は解脱でもしなければ果てることなどない気がしている。
研究にしたって、バトンを渡すだけのリレー選手のひとりに過ぎない。
私の存在に意味はあるけれど、ただそうして何かを橋渡しする役どころを演じきれたのならそれが意味そのものを果たすことである。そういう風に考えている。
脇役ポジ。
頼むから主役に抜擢しないでおくれ。
ただ大切なひとたちが、死後の私を思い返すとき、
「なんだかんだ充実した人生を送っていたよね」
そんな風に笑いあって会話ができるような、そんな人生にしておきたいなと思う。
目の前にあるものごとについて、できるだけ後悔しないような選択することも、そのひとつなのかな。
意識の中にだけ存在する概念は存在しているとしてもよいのかどうか。ふと気になった。その人自身が消えてしまえば概念ごと消えてしまうようなものたちについて
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年4月23日
「この世界はもう既に何度かリセットされてきたし、もしかしたらまたリセットの時が訪れるかもしれない。こわいよね、どうしよう」って言われたのだけれど、私にはその恐さがあまりよく理解できなかった。皆同時に平等にこの世界から消えるのなら何の未練もないような気がするんだな。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年4月23日
それはつまり、私が死に対して抱く恐れとは、自身のやりたいことをやり遂げられないという悔しさに起因するものではなく、遺していく誰かの哀しみを畏れているということを意味するのかもしれない。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年4月23日