遊泳

猫、或いはサイエンス

dimension

それまで自分の中に存在しなかった概念が誰かの手によって切り出されるとき、若しくは自らの手で意識の表層まで引っ張り出されるとき、それは「発見」というカタチで現れるのだなと思う。
そこに理解が伴って初めて感じる驚きと、幾ばくかの快さ。

自分の世界を拡張したい(言い換えれば、違う箇所からも切り出すことができるようになりたい)と考えたとき、「その世界をどの方向へ伸長していくか」についての選択の自由はある程度与えられているのではないかと、ふと思った。
切り出し方の指向/嗜好性。
私はより多くの発見を好み、その理解の獲得を求めているのだろうな。
理解されたいのではなく、理解したい。

ただそこに、理解されたいという感情も生まれたとしたら、初めて相互作用を求める事になる。
「君とinteractionしたいんだ」
なんて甘美な口説き文句。
私はこれ以上の甘い言葉を知らない。


1つの思考に集中しようと深く潜った筈なのに、発想が次々と連結してゆくのは不思議だなと感じている。
XY軸を移動していた筈が、いつの間にか次元を増やし拡がっているなんて。
それは何処から持ち込まれるのだろう。
無から有は生まれるのか。果たして。