遊泳

猫、或いはサイエンス

arrogance

かつて私の中にはひとつの神様が存在していました。

自分自身という概念を、たぶん神様と呼んでいたのです。
私だけでなく、ひとりにだいたいひとつずつ神様は宿ると信じていて、それぞれの神様が其々の世界を統べるのだと考えていました。

だからかつては自分の他にすがるものを求める考え方はよく理解ができなかった。
問題が起きれば自分が解決すればよいし、努力すればどこまでも賢くなれると信じていた。心から求め愛すれば、返愛が手に入ると思い込んでた。

なんて傲慢で世間知らずな神様なのでしょう。

成長して、自分の中の神様がたいしたことない存在だと気づいたとき、初めて信仰の意味を知ったように思います。
尊敬とか憧憬とか救済みたいな自分の外部に存在して、自分の裡側に採り込まれて初めて作用するような現象は、私の中にあった驕慢さを叩きのめして這いつくばらせて余りある美しい光なのでした。

今でも私は叩きのめされたくて、憧憬を胸に抱いて生きてはいるのだけれど、お逢いできたらその時は
、泣いてしまうだろうか。それともにこりと微笑むだろうか。
答えのない問いを自分に投げ掛けてみてる。