遊泳

猫、或いはサイエンス

連鎖

人にはだいたいひとつずつ、心、言い換えれば感受する器官と思考する媒体が備わっているということが幼い頃から不思議だった。

Twitterはその疑問への答えを可視化してくれる側面がある。
自分以外のひとが何を五感して何を考えているのか。こんな面白いことはない。

言葉という伝言ゲーム的な機能が介在されると自分が認識できる感覚のみが拾われたり、その感覚自体が改竄される事もある訳だけれど、例えばそう遠くない未来に他者の感覚と私の感覚とをダイレクトに繋げてくれるようなツールが生まれるだろうなと考えると少し怖くて、物凄くわくわくする。

その時この世界は飛躍的な進化を遂げるだろう。

同じ外挿刺激を与えられたときにあなたが感じる感覚と私が感じるそれとでは一体どれだけの解離があるのだろう?
その刺激に因って想起されるあなたの連想はどの方向へ向かうのだろう?
ひとりとひとりが繋がるだけでもそれらの圧倒的情報量の荷重が予想されるのに、もっと数多くのひとと繋がったとしたら。

生きているうちに体感してみたい。
この世界の一部であるという実感が欲しいのかもしれないなあ。