遊泳

猫、或いはサイエンス

実装

いちにち家にいて猫と戯れたり読み物をしたり。
夜から学生時代のバイト仲間の集まりに誘われていたのですが、体調が思わしくないためキャンセルしてしまいました。久しぶりのひとたちもくると聞いていたので少し残念でしたが。

ついったの鈴木さんとの会話でEQ(心の知能指数ってやつ)の話題が出たので久々にネットテストしてみました。心のまま正直に答えると相変わらず散々な結果になります。それに反して「社会的に正解とされていそう」な回答を選びやり直してみると問題ない(但しちょっと自己評価が甘いかも)という結果が出る。
この2つの結果の間に横たわっているのがかぶっている猫の厚さという訳です。にゃんと。

これまでの人生、自分がどのように振る舞えばある程度社会的に許容されるか、そのことを常に考えてきました。
そしてそれらの「許容されそう(まともに見えそう)な行動」をマニュアル化し、新たな発見があれば都度内容を更新しつつ、私はそれに従って生きているのです。「許容されなさそうな自分」は私が定める一部の人達だけが知っていてくれればいい。

ただTwitterは社会性が薄いぶん、このマニュアルから逸脱する部分が顕れやすい傾向があると感じています(お陰で同種の性質をもった方々と繋がりやすいという側面もありますね)。

とはいえ、かぶっている猫の部分も含めて私は私なのだから、「許容されそうな私」の方を好ましく感じてくれる人達が虚像を見ている訳ではない。
擬態することも赦していてほしい。
そうでないと巧く生きられないのですよ。

そういえば鈴木さんから、私の興味のある物事への食い付きかたと掘り下げかたの特殊性について指摘を受けたのでした。以前「なつきさんはADHDの境界に位置するのでは」とも指摘されたのですがこういう部分に出やすいのかもしれません。
もしかしたら、独自の内部規律をもっているところもそうかもしれませんね。他の人の話を聞くと、どうやらそういったものを持ち合わせている人は多くないようなのです。或いは自覚的でないだけなのか。私は私自身を常に把握し制御していたい、ただその一心なのですけれども。
例えば下のツイートも自分で自分を縛る内部規律のひとつ。


自分が選択する行動に理由をつけないと納得ができない。いや、もしかしたら意に沿わない行動に対して理由付けをしているだけなのかもしれません。さすれば制御とは、一体何を制御しているのだろう。私を私たらしめている選択と行動は何処から生まれているのか。
考えるほどわからなくなるなあ。

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