余白の感情
書きたいことは幾つかあれど、今日は体力がもちそうにありません。
帰り道Twitterにメモったことをちらほら。
@null 容れ物の大きさ。最下層、裾野の拡がり、その人自身が詰め込むことができる容積
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年6月21日
@null 水面下にある思考の拡がりはある一定の長文において顕現しやすい傾向がある。勿論それを知性と呼ぶことはできるけれど、実は如何に思考を抽出し表現するか。その切り出し方にこそ知性とセンスが最も発揮されるのかもしれない。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年6月21日
@null 文脈構成の技能と思考を表現する技能は分けて考えた方がいい。どちらも相手への伝わりやすさを前提として組まれるが、前者は論理性、後者は抽象的な物事を具体化するための仕事である。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年6月21日
職業柄、報告書を作成する機会が比較的多く、前者についてはそれはそれはもう、厳しい指導を受けました。
主語を省くな。しつこいくらいに主語を入れなさい。
指示語を多用するな。使うなら何を指すのかを明確に示しなさい。
ひとつのセンテンスをだらだらと長くしない。簡潔な方が相手に理解しやすい。
などなど。これらはツイートするときにも(冗長にならない程度に)意識するようにしています。
ただ報告書などではない、例えばこのblogのような文章については、削ぎ落とした表現の中に現れる美しさみたいなものが赦されるように思うのです。
敢えての冗長さ。理解しづらい言い回しを理解できたときの歓び、特別感。
そのようなものに価値が生まれると考えています。
自分の中にある抽象的な事象を如何にして他人とシェアすることができるのか。
これについては言葉を用いた説明だけでは足りない。感覚そのものを刺激するような手法があるのではないかと考えているのです。
余白に書き込まれた感情を分かち合いたい。
夜を照らす灯りのよう pic.twitter.com/l1XHuTPZAe
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年6月21日
うちにある鉢植えのクチナシとは違う形状をした花弁をもっています。どちらもすき。
個性的で、ひとを振り返らせるだけの香りを放つ夏の甘い花。