遊泳

猫、或いはサイエンス

伝えるための模索

時々サボりがちになっているけれど、blogはできるだけコツコツ積み重ねてゆきたい。
但し無理はしないこと。何もないところから無理矢理捻り出さないこと。
残り僅かな歯磨き粉をチューブを押して出そうとするんだけど手を離すと全部引っ込むか、にょろりと出すぎる様を思い浮かべました。何の喩えにもなっていないんですけど。

必要があり、オピオイド系麻酔薬についてちょっぴり勉強し直していました。
脳内でピリピリとした痛みを伝えるのは伝達速度が速い有髄神経のAδ線維で、ずきずきは遅め伝達、無髄神経のC線維なのですが、速い遅いといってもm/secレベルの話なのに人間の知覚認知能力は意外と鋭敏だよなあと感じました。
今後頭痛が起きる度にどちらの線維を介しているのか見極めてみることに致しましょう。
有髄神経の方は跳躍伝導してるのだろうから想像するだけで愉しくなりそうな予感(片頭痛の時はそんの余裕はありませんけれども)。


狂おしいほどの愛しさを感じる時、私は「はうはうする」という表現をよく用いるのですが(改めて文章に起こすと物凄くバカっぽいな・・・)自分の中にある感情の高鳴りレベルに何となく見合う気がしてしっくりきます。
狂おしいものに対して「ああ狂おしい」と表現してしまうとそこで完結してしまうように思うのです。全然狂ってなさそうだし。


「はうはう」はオノマトペの一種かと思いますが、私はどうやらありきたりのオノマトペをあまり好ましく感じていないようで、もう少ししっくりくる表現はないか、雨がバシャバシャじゃなくてビタビタ降ってもよいではないか。そんな風に考えています。面白さとして誰かと互換したいというよりは、既成表現への懐疑があるのかもしれません。
或いは世界に対してもう少しだけ耳を清ませていたいという気持ちのあらわれかな。
言葉の不自由さからできうる限り解放されること。それを模索し続けることは、私にとって好ましい状態であるみたいです。
勿論、誰にとってもしっくりくる表現なんてものはこの世にないと思っていて、模索する行為は私という人間の在り方を誰かに伝えるための表現探しのひとつと言えるかもしれません。

独占したいとかされたいとか、愚かしい感情ほど甘い誘惑に満ちているのでした。