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遊泳

猫、或いはサイエンス

生命の好ましきうるささ。

ふと、
「私はぼんやりしている時間が随分長いのではないか」と思いました。
昨日は有給休暇をとっており、折角だから朝早めに起きてひとりでふらりと、箱根とか小田原とか鎌倉とか、どこか遠くにでも出掛けようかなどと夢想していたのですが、気がついたら15時位になっており。
おかしい。誰が私の時間を食べたのだ?
・・・私だ。


とりとめもない考え事しているうちに数時間が過ぎていて、毎日タイムトリップしているような気分になります。
そんな内容をツイートしたらテーラワーダの瞑想実践者、じのんさんにふぁぼって頂いて初めて気づきました。
そうかこれ、瞑想の入り口かもしれないな、と。
もちろんあれこれ考えてしまうのは瞑想とは違うのですけれど。


Twitterを眺めている場合、誰かの思考が流れ込んできたりリプライなどの通知がくるため、それらに対しての反応が生じ我にかえりますが、知らないうちに多くの時間が過ぎている事だけは類似している。
タイムラインを遡っているあの時間の私の意識はどんな状態にあるのか。もう少し自覚的になりながら遊んでみるのも悪くないかもしれません。


井筒俊彦氏の『意識と本質』を読み始めています。
まだそんなに読み進めていないというのに脳を直接叩かれるような発見がそこここにあり、メモをとりながら読んでいる状況。
頁をくくる手は遅々として進まないけれど、それは幸せという言葉を実現する現象なのかもしれない。

例えば

『コトバは元来、「本質」喚起をその本性とする。』(p25より抜粋)

言葉で物事を表現して初めてその事象は「認識」されるが、しかし同時にその事象は既に本質そのものではない存在に置換されてしまう。故に「本質の実在性」は否定される、というロジックに続いてゆきます。
個人的には「では言葉で規定されないような意識そのものは本質ではないのか?」という疑問が湧くのだけれど、そういった考えに対する答えも後々現れたりするのでしょうか。楽しみです。


土曜日の表参道はまだセミの声があまりしなかったのですが、原宿方面、明治神宮が近づくほどに降り注ぐように感じられました。
あの鎮守の森から沢山のセミが這い出ては、表参道方面に向けて飛び立っているのでしょうか。
じわじわと行動範囲を拡大し、やがて表参道をセミが埋め尽くす頃、盛夏の頂点を迎えるのかもしれません。

去年、道路をよたよたと歩いていたセミを踏まれないようにと木のへりにしがみつかせたら、そこで羽化してくれたようで、翌朝見事な脱け殻だけが残されていた、なんてことがありました。
降り注ぐこのセミの声のどこかに、その一匹が紛れ込んでいるのかもしれないなんて考えたら、ちょっとうれしくなりました。
今年もがんばれ。そして煩いくらいの命の声を聴かせておくれ。