遊泳

猫、或いはサイエンス

awake

昨夜予定の半分ほどまで書き上げてあったblogの続きを書こうかと考えたのですが、あまりにも今日の気分に寄り添わないので、イチから書き直すことに致しましょう。
言葉に置き換わらなかった種々の感情や出来事は心の奥底で養分となって次のそれらを育てることでしょう。


とても静かな気持ちでそのことを考えていました。

何か考え事をしているときは、自分のペースを保つことができる環境が私にとっての最善であり、(一部を除いての)他者に干渉されることを好まないところがあります。
故に、ひとが思考の海に沈んでいる時にもまた、干渉をしたくないなと考えてしまう。結果、独り言が増えてしまいますね。

もしかしたら私は、自分のなかで一度結論を出したいのかもしれません。
自分の頭の中で考えたことがどんなに稚拙なものであっても、自分なりの答えを導いたという達成感を獲得したい。
その上で、誰かの意見を聞いて納得ができたなら、結論を変えることも全く抵抗がない。
それから認識の食い違いがない相手との議論ならば最初から愉しいかもしれません。
(認識の修正をすればよいだけの話ですが、その手間が惜しい人と惜しくない人がいる、というこれはただの差別と依怙贔屓)


しかし自分宛てのエアリプか解らないものにたいして何かしらの反応をするのは勇気が要るものですね。
私は「これは伝わるとよいな」と思う発言に関しては名前を入れてエアリプをする(それでもリプライでなくエアリプ)のですが、それはそれとてうううびくびく。臆病者が風を吹かせます。
まあ私も同様のことを数多くのひとにしているのだから自業自得。どうせ恥ずかしい人生だ、開き直って参りましょう。


凪いで見える海のその下にある海流こそが命の脈動。
その脈動に触れられるだけで私の幸福は飽和するのです。
Mentally perceptive and responsive.


強い理論であると思える時ほど、疑ってかかるということ。