空へ。
昼間に外を出歩いていないので夕刻の空気から類推される雰囲気だけ感じているけれど、今日は夏が帰ってきたような1日だったみたいですね。
夜のこの雰囲気が既に懐かしくすらあります。
朝方、向日葵かなあ?と思って撮影した写真。
これからまた夏がくればよいのに、と思う程度には夏がすき。
ふと触発されて黄金率のような受動的な美への感覚について考えていました。有無を言わさず「美しいと感じさせらる感覚」について。
多くの人に備わっている美への共通感覚、例えばそれは生命の維持に関わるような生理学的要因から発生する感覚だったりするのかもしれない。必然としての美。先天的獲得形質としての。
調べてみると、神経美学という学問領域があるらしい。
脳には「感覚運動回路」「感情と報酬の回路」「意味と概念の回路」があり、この3つが美的経験を作っている。
http://gigazine.net/news/20150715-what-beauty-is/
「美しいと感じるもの」に対しては依存性をもたらさない種類の報酬系が働き、快の感覚を与えるという可能性も考えられているよう。
つまりは「美しさを感じること」そのものが、生きていく上である程度の「生きやすさ」を与えてくれるという事なのかもしれない。
他にもデフォルトモードネットワークのトリガーとして働くという説もあるようで、なかなか興味深い。
他者の考え方に対する共通解釈は要素の理解と文脈の理解の上に成立すると私は考えているけれど「現在持ち合わせている理解力」だけで近しい解釈をとる事は難しくて、相手から外挿される或いは自らの考え方を否定肯定しつつ獲得していくような考え方の更新の、どちらも必要なんだよな。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月1日
@natsukissweet でもこれって莫大なコストがかかるからそれなりに価値を感じる相手に対してしかできないことでもありますよね。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年10月1日
ここで言いたかったのは
「わかり合うためには共通するレベルの知識を持ち合わせた上でお互いが理解できるまで見解を擦り合わせること」
が必要なんだけど、
「ある程度までわかりあえるまで話につきあってもらうのは莫大なコストがかかりますよ、最初から気が合うひとなら工数少なくてすむけどね」
という話。
相手に対して愛情があるとか、わかり合う事で知識が深まるだとか、何かしらのメリットがない限りはなかなか話あうことができない。世界はシビアだと感じますね。
話したいと思うひとがいるなら、自分自身のレベルを高めなければならない、ということ。
まあ、考え方の違いだとか性格が合う合わないなどの複合的なエレメントもそこに深く関わってくるわけで、自身を高めたところで理解しあえるという訳ではないのですけれども。
金木犀、気がつけば空気中にすべての香りをはきだして、力なくはらはらりとこぼれおちていますね。
小さな小さな星のような形の花びらを掬い上げて空に投げたい。愛しい。