遊泳

猫、或いはサイエンス

commit

雨。
2日連続で激しい雨音を聴きながらぼんやりとしています。



何度かここでもTwitterでもこの事について言及しているように思うけれど、つらさを分解していくとただの要素になってゆくと思うのです。
感情から理論への相転移が起きる。そしてこれは可逆性をもつ。
幸福も、おそらく同じなのではないかなあ。

受動的な幸福と能動的な幸福との間に大きな違いはないけれど、後者のようになんらかの出来事に対して積極的に幸福を見出だしてゆくことは自分次第で可能だと思うのですよね。
文脈の取り方次第で結末は変わる。
そういった意味で、つらさもまた同様なのではないか。
そのように考えていたのでした。


これはあまりにも強い言葉だから敢えて説明はしないけれど、自戒の念として残しておきたい。
私がたとえ誰かに期待し、そして失望したとしても、相手を責めることなく現状を受け入れ、自分の側を改変していきたい。

これは非常に面白いと感じた出来事でした。
意識の外から入力される情報は、五感以外の由来もあることを思わせるような。
何かを「ふと」気づくような時はもう少し意識を研ぎ澄ませてみたいな。もっと何かが見えるようになるかもしれない。






コミュニケーションにあまり自信がない人間なので取得した情報を活かしてcommitすることに苦手意識があります。
安心して話せる相手としか話すことができていない(仕事は勿論別ですが)。
結果的に自分の中に「相手の像」を結ぶことで、理解したと納得してしまう。
そんなもの、自己を投影した傀儡に過ぎないのではないか。歪んだもうひとつの自分でしかないのではないか。
いや、どんなに深い会話を重ねたところで像は像でしかないのはわかっているのだけれど、像の手触りにリアリティがほしい。ただその衝動だけを抱えているのかもしれません。
いやはや、全く困った独り相撲だ。
どうして星を眺めているだけで満たされていられないのか。
「本当の自分なんてない」のと同様にきっと「本当のあなた、本当のきみ」もいない筈なのに。
私はいったい何を知りたいのだろう。
ね。