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遊泳

猫、或いはサイエンス

主観と客観の不一致

久しくblogをサボっていたせいで日々心に浮かんで書き留めておいた物事がつもり過ぎました。
本来なら一過性である感情をひょいとつまみあげるような趣旨で書いているこのblogですが、気負いすぎるとこういうことになるんだな。
もうすこーしお気楽にゆきましょう。いきたいな。


「私自身が思い描いている自分自身」と
「周囲がイメージしている私という人間」は
たいてい一致していないように思います。
多少一致していたとしても、きっとピタリと同じイメージにはならないでしょう。
そして「そのどちらかが本当の私」という訳でもない。
つまりこの世界には「たったひとりの私」ではなく、「私と関わりがあるひとの数だけの私」がいるように思ったのです。

例えば私と関わりがある人々が抱く私へのイメージを「それは違う、それは合っている」とジャッジすることは不可能なんですよね。どちらが正しいかなんて誰にもわかりはしないのだから。

私が私という人間について言葉や態度で示し、誰かにその表現を投げたとします。その表現を受け止めた人々は各々、自分の知識や経験やその場の感情といったあらゆる複合的な要素をもちよって「私を解釈」しようとする。
その結果、「何千何万の私についての解釈」が生まれゆく。
つまり「私の正体」とはひとつではなく、解釈の数だけ存在するのかもしれない。
そのようなことを考えていたのでした。


しかし、もし自尊感情を傷つけられるような解釈をされたり、この人には曲解や誤解をされたくないなと感じた時には、相手に弁解をすることもあるでしょう。これら主観と客観との解釈の距離を縮めるには、論理的に説明したり、時間を割いて説得したり、証拠を探して提出したりというようにそれなりのコストが求められるので、めんどくさいというネガティブさなどをそこに上乗せしてもペイする位のメリットが必要なんだよな、と思うのでした。


ミシェル・ウエルベックの『素粒子』を読んでいます。イメージしていた物語とはかなり違いましたが、一見空虚で愚かに見えるような人生に落ちている人間のプライドや生きるための論理や欲望への言い訳がゴリゴリと心を削るような作品だと私は感じています。残りあと1/3くらいだけど、どうなってゆくのか楽しみに少しずつ読み進めてる。

天を仰ぐ。
それはきっと、光のように見えるのでしょう。