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遊泳

猫、或いはサイエンス

幸福という性質

今年はギリギリ29日まで働く予定だったのですが、予定よりも早く実験が上がったのでええい!と休みを繰り上げてしまいました。しかし少しばかり無理をしたせいで最終日に体力気力を使い果たし、帰宅した後、床で寝落ちる羽目に。
自堕落、いくない。


幸福の話をしよう。
いや、幸福に限った話ではないのだけれど。

性質とはある指向性をもつもの、或いはその前駆体に含まれる。類似した性質をもつもの同士は誘引しあい、フィルタリングされ、集積してクラスタ化されてゆくのだと考えている。
幸福という性質もまた、そのような特徴をもつイメージがある。

キセノンちゃんが言う「人は満たされている人の元に集う」とは「幸せな(性質をもつ)人の元に幸せな(性質をもつ/もちたい)人が集う」という事だ。
それは共鳴しあう人どうしが誘引しあい、互いの感情にアクセスすることで増強、或いは減弱しながら精製されてゆく「感情の結晶」のことである。

肯定も否定も、感情の精製過程に於いて紙ヤスリの働きを示す。
余剰を削ぎ落とし、指向性を高める。それはまるで、結晶の純度を上げるための道具のようだ。
同様の性質をもつ人が集えば肯定に傾き、意見を強固なものにする。
もし否定があったとしたら、目の細やかなやすりをかけるように修正に用いられる。
異端分子を排除しながら。

あの頃のキセノンちゃんは純度のことしか考えていなかった。フィルタリングの暴力性について無頓着であったのだと今なら言える。

現在のキセノンちゃんは、こう考えている。
「異端分子を異端分子のままに呑み込みつつも、幸せでありたい」

純度を上げずとも一切をあるがままに呑み込んでしまうことができたなら、どんなに素敵だろう。
そのための余裕や安定を含んだ土台を自分の中に構築しておきたい。
幸福という土台を、自分の中に。
やはり私は幸せでありたい、そう思う。






「執着を棄てる」ことについてですら「執着しない状態」に、いつか辿り着きたい。

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