遊泳

猫、或いはサイエンス

知性の次元

空から降ってきた春の欠片がアスファルトに跳ね返り、私を濡らす。
いつのまにやら暖かい。

ここ最近は休みごとに10 ㎞ほど歩くことにしています。あてどもなく歩くとすぐ帰りたくなってしまうので、目的地だけは定め、ルートは気の向くままに。Google地図だけが頼りだけれど、心が誘われる道を見つけたら少し位方角がずれていても構わない。
Google地図様が「左に曲がれよ。左つってんだろ!」としつこくアラートし続けてきても無視する豪胆さが身に付いてきました。あいつ時々適当なこと言うしな。

丘陵地帯に暮らしているおかげでくねくね曲がるアップダウンルートにしばしば出くわす。折り返す度に自分の後ろ姿と出逢えそうだ。
他愛のない話、他人の庭、ビタミンD合成、健やかなる疲れ。





気づきは時に2次元に為りうるんだけれど、この場合の気づきとは、自分はマインドフルな状態を獲得するシーンを想定していた。
ばうむさんには「気づきはちょっとしっくりこないな」と評されたのだけれど。
これももしかしたら、5人くらいに理解されればよい、という類いの話なのかもしれない。

所謂「5人くらいの理解」、頭のよしあしを指す場合と、感覚の一致について述べる場合とに明確な境界がないせいで、云われた側に無用の禍根を遺すようにも感じている。伝家の宝刀を抜き放つ感じ。
ん、これは3人くらいに理解されればいいかな。
たった1人だけに理解ゲームになってきたぞ。むべなるかな。


「世界を拡げる」とは、数多くの人と共通する概念を理解することと、自分1人だけが理解できる事項とが併存して矛盾しない状態なのだなと、ふと思った。
他人の頭の中を覗きたいと思うことがあったとしたら、それは自分との差異を見出だすためか、若しくは恋だね。もしかしたらね。