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遊泳

猫、或いはサイエンス

知性の次元

空から降ってきた春の欠片がアスファルトに跳ね返り、私を濡らす。
いつのまにやら暖かい。

ここ最近は休みごとに10 ㎞ほど歩くことにしています。あてどもなく歩くとすぐ帰りたくなってしまうので、目的地だけは定め、ルートは気の向くままに。Google地図だけが頼りだけれど、心が誘われる道を見つけたら少し位方角がずれていても構わない。
Google地図様が「左に曲がれよ。左つってんだろ!」としつこくアラートし続けてきても無視する豪胆さが身に付いてきました。あいつ時々適当なこと言うしな。

丘陵地帯に暮らしているおかげでくねくね曲がるアップダウンルートにしばしば出くわす。折り返す度に自分の後ろ姿と出逢えそうだ。
他愛のない話、他人の庭、ビタミンD合成、健やかなる疲れ。





気づきは時に2次元に為りうるんだけれど、この場合の気づきとは、自分はマインドフルな状態を獲得するシーンを想定していた。
ばうむさんには「気づきはちょっとしっくりこないな」と評されたのだけれど。
これももしかしたら、5人くらいに理解されればよい、という類いの話なのかもしれない。

所謂「5人くらいの理解」、頭のよしあしを指す場合と、感覚の一致について述べる場合とに明確な境界がないせいで、云われた側に無用の禍根を遺すようにも感じている。伝家の宝刀を抜き放つ感じ。
ん、これは3人くらいに理解されればいいかな。
たった1人だけに理解ゲームになってきたぞ。むべなるかな。


「世界を拡げる」とは、数多くの人と共通する概念を理解することと、自分1人だけが理解できる事項とが併存して矛盾しない状態なのだなと、ふと思った。
他人の頭の中を覗きたいと思うことがあったとしたら、それは自分との差異を見出だすためか、若しくは恋だね。もしかしたらね。

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自己評価

午前中は頭痛がちょっとあり、片頭痛に移行する気配を感じたので、早めにロキソニンを服用。
ついでに肩こりも解消されてしまうからすごい。

年度末なので会社の業績自己評価などというものを提出しなければならず、元来自己評価が低い人間なのでこれがなかなかつらい。よさそうなことを書くたびに「私、調子に乗ってませんかね?」という気持ちになる。でも来期の評価とボーナス額に響くので「えいやー!」と書いてしまう。書いたからにはそうで在らねばならなくなり、自分で自分を追い込んでいるような気持ちになるよ・・・

ひと、なぜ成長し続けなければならぬ、ひと、なぜ・・・(資本主義社会への呪い)

そんなこんなで帰り道にぼんやりと、自分の強みと弱みについて考えていた。
発想の新規性はあまりないけれど、問題の解決や改善能力に優れている。構成力はあるほうだが、矛盾やエラーに気づく能力が低く、事前に抑止する視点に欠ける。
これらの弱点を解決するためにここ一年ばかり、試行錯誤してきた。
発想の新規性を獲得するために既存知識を磐石にすること、専門以外の近い領域についても幅広くカバーすること、それらを臆せず繋げてみること。
読む本のジャンルを拡げた理由のひとつも、そこにある。
矛盾とエラー回避については、とにかく「丁寧に」「集中して」実行すること、それから「(自分への)疑いの目をもつ」「何度でも校正しなおす」こと。
何事に対しても「面倒だな」と思う気持ちを棄てることを目標に、物事に取り組んできた。
少しは改善してきたかな。

丁寧に生きるといった内容のエントリを以前ここに書いた記憶があるけれど、日常生活ももう少し、丁寧に生きたいんだよな。

こうして弱みを自覚して改善することは、私という人格にもコミットされているということなのだなと考える。
会社の業績自己評価が人格を変える。
間違いなくそういう側面はあると思う。
どんな会社に入り、その会社がどんなカラーをもち、どんな考え方をする上司に巡り合うかで変わってゆく何かがある。
せめて受動的でなく主体的に、変わっていければいいなと思う。譲れないところは譲らずにね。

そんなこんなで唸りながらもシートの空欄を、埋めてゆくのでした。

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儀式。

先月購入した機械式の腕時計、とても気に入ってほぼ毎日つけています。
毎朝目覚め、麦茶を一杯飲み干してキウイを食べたあと、腕時計の螺子を巻き、スマホ電波時計時間に針を合わせる。
一連の動きが儀式のように流れ、やがて行為が習慣化して自分の一部として馴染んでゆくまでの感覚を味わってる。


儀式的な行為はわりとすき。
行為そのものを愉しみ、慈しむ時間は日常から切り離された特別なものとして愛している。


でも本当は物事の大半を無意識のうちに処置し、その間、ぼんやりと考え事をしたりする時間にしていられたら理想的なんだな。
仕事中にこれをやるとミスしてしまうので、生活という限定した時間での話になるのだけれど。

例えば細かい雑事、メモ等に退避して忘れてしまいたいタイプ。
ToDoや覚えておくべきことは、evernoteや付箋紙等を活用するようにしてる。
「まめに書き留める」と「適宜見返す」という習慣を獲得してしまいさえすれば、他の重要事項のための記憶スペックを空けておくことができる。これを始めてから仕事でも生活でも比較的円滑に行動できるようになったと思う。優先順位もつけやすくなるしね。


機械式の腕時計は精度合わせのために毎日螺子を巻くのだけれど、腕に装着して動いていさえすれば、基本的に止まることはない。適切なメンテナンスを定期的にしていれば、何十年、何百年と残すことだってできる。
この腕時計はオープンハートのフェイスにシースルーバックなので、カチコチとしたムーブメントの動きを目で見ても楽しめるし、腕に着けていると私の動きに合わせ、螺子を巻く感覚が伝わってくる。
本当に、生き物みたいなんだよ。

これから先の人生のほぼ同じ時を過ごすであろう新しい相棒の螺子を巻く。
新しくひとつ加わった、私の朝の儀式だ。

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woolgather

kentzさんのblogが自由な感じで面白かったので若干触発され、久しぶりにblogを書いています。
正確に言うと「書き始めた」状態であって書き終わりを担保するものではありません。最後までたどり着けるかなー(この2ヶ月間、何度か書いては下書きのまま放置を繰り返していますゆえ)。

勿論内容にも拠るんだけれど、blogはTwitterのような断片的な投稿とはまた違った方向から人となりを表すなあと改めて感じました。
考えの種をどのように育てて刈り取るかをひとつの文章の流れの中で追うことができるお陰で「なぜその結論に至ったのか」を理解しやすい場合が多いからかな。
私のこのblogも同様に、違う方向から照らされたライトのように、私という人間を立体的に浮かび上がらせてくれているだろうか。


先日読み終えた石黒浩先生/池上高志先生の『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』という本がここ最近読んだ本の中でも格別に面白かったです。
元々は久しぶりにサイエンス方面の本を読みたいと考えて購入したのだけれど、予測以上に哲学的エッセンスに満ちた内容でした。

このエピソードがとても興味深かったです。恐らく人の認知を超えたところには規則性があるのだろうな。 直感というものは、このようにコンピュータが導きだす答えと類似したものではないのだろうかなどと考えていました。法則性を見出だすことをショートカットし、結果のみを連れてくるようなイメージ。

最後の章で池上先生が仰っていた「生命の複雑さとはattracting stateではなく、有限な時間の中で、開かれた状態空間の中に生まれる流れの澱」(要約、p146)という概念、生命体の制限状態と相互性の上でmatureになってゆく様子を綺麗に言い表した言葉だなと感じました。
人はどうしたってinteractiveな情報のやりとりの中で磨かれていく生き物なのだな。スタンドアロンが叶わぬのならせめて冬の夜空みたいに硬質で透明な光のような情報で磨かれてたいなあ。

実はこの本を読む少し前に、「入力刺激は絶対的に足りないことはわかるけれど、まっさらな人工知能を赤ちゃんのように育てることで人を模倣することは可能なのか」という疑問についてばうむさんと議論したのだけれど、本当にそのようなことを研究している人がいるのだな、と嬉しくなりました。心がどこにあるのかという疑問への答えは簡単にはでないだろうけれど、今後のアンドロイド研究の進捗が益々楽しみになりました。



「リアルなあなた」に逢わなくても、私はあなたの二次元情報のみを組み立てて3D化することが可能である。
妄想は容易い。
妄想は優しい。
妄想は裏切らない。
閉鎖空間での拙い遊び。



おや。今日は最後まで辿り着けたようです。
これからも気楽に参りましょう。ではでは。

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精神的負債の一時預り。

なんとなく本を読む気になれなくて、明けましておめでとうございます。
ついでであるかのようにご挨拶しておりますが心を込めて。ううもう少し休んでいたかった。
今日から仕事始めです。

憧憬する相手に認められたいという気持ち、つい最近自覚したばかりだから私にとってTwitterで見かけたそのテーマはタイムリーな話題でした。相手の目に留まりたくて足掻いて空回りする日々から離脱しかけているところ。なかなかみっともない感情なので、もう少し整理して格好つけてからツイートしたかったのだけれど、ついつい流れに乗ってしまいました。言葉が溢れてしまったのですね。心に収まりきれずにね。


憧れる相手がライバルでもない限り、必ずしも同じ土俵に上がって認められる必要性はないのですよね。時々私はその罠に陥るのですよ。憧れの相手が見ているものを私も見たい、採り入れたい、その人のようになりたいという気持ちが強いのかな。同じ目線で語り合えるようになりたくて、必死になってしまう。その事に最近ふと気づいたのです。


同じ土俵じゃなくてもいい。自分の「やり場」でのステージを上げていくことによって、その人の前で胸を張っていられることを目指せばよいのかな、と漸く思えるようになってきました。


もし憧れの人の世界に於ける構成要素のひとつになりたいのなら、相手の心を変えるのではなく、必要不可欠な存在になることを目指したい気持ちが今はあります。相手の欠けた部分をそっと補うような。或いは、弱い部分を補強するような。適切な時に適切に働く遺伝子として組み込まれたい。そのためには自分の生きる道をより充実させていくことが最も手っ取り早いのではないかなーと考えています。
お互い違った楽器だけどセッションしようぜ、ってな具合にね。素敵な曲を奏でましょう。



そういえば年末にマリーアントワネット展に行ってきました。
個人的に芸術としての魅力はあまり感じなかったのですが、史実を伝える資料としては画期的で素晴らしい材料が揃っていたのではないかと思います。
処刑直前の妹に宛てた手紙など、死へ向かう覚悟と矜持を感じさせる内容で、彼女へのイメージが一新しました。
なかなか面白かったです。
会期中に上野にもゆきたいのだけれどもうすぐ終わりだから混んでるかな、クラーナハ展。
三連休、楽しみましょうぞ。

では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

不定形な認識と感情

2016年最後のご挨拶。

今年読みに来てくださった皆様、ありがとうございました。


そのような「認識」もまた、こうして知覚し、言葉にして切り出すことで初めて実存を与えられるのだな。
世界は線を引かなくても存在している。
けれど切り出さなければ誰かに伝えることは難しい。
ただそのことばかりを言い続けてきたようにも思います。

自分の中にある不定形な認識や感情にただただ、言葉を与える日々。
抽象的なままでは受け入れられないような心に言葉という居場所を与えることで、折り合いをつけたかったということなのかもしれない。

そんな「私というフィルタを通してみる世界」を読んで下さってありがとうございました。
皆様におかれましても、よいお年を迎えられますように。

幸福という性質

今年はギリギリ29日まで働く予定だったのですが、予定よりも早く実験が上がったのでええい!と休みを繰り上げてしまいました。しかし少しばかり無理をしたせいで最終日に体力気力を使い果たし、帰宅した後、床で寝落ちる羽目に。
自堕落、いくない。


幸福の話をしよう。
いや、幸福に限った話ではないのだけれど。

性質とはある指向性をもつもの、或いはその前駆体に含まれる。類似した性質をもつもの同士は誘引しあい、フィルタリングされ、集積してクラスタ化されてゆくのだと考えている。
幸福という性質もまた、そのような特徴をもつイメージがある。

キセノンちゃんが言う「人は満たされている人の元に集う」とは「幸せな(性質をもつ)人の元に幸せな(性質をもつ/もちたい)人が集う」という事だ。
それは共鳴しあう人どうしが誘引しあい、互いの感情にアクセスすることで増強、或いは減弱しながら精製されてゆく「感情の結晶」のことである。

肯定も否定も、感情の精製過程に於いて紙ヤスリの働きを示す。
余剰を削ぎ落とし、指向性を高める。それはまるで、結晶の純度を上げるための道具のようだ。
同様の性質をもつ人が集えば肯定に傾き、意見を強固なものにする。
もし否定があったとしたら、目の細やかなやすりをかけるように修正に用いられる。
異端分子を排除しながら。

あの頃のキセノンちゃんは純度のことしか考えていなかった。フィルタリングの暴力性について無頓着であったのだと今なら言える。

現在のキセノンちゃんは、こう考えている。
「異端分子を異端分子のままに呑み込みつつも、幸せでありたい」

純度を上げずとも一切をあるがままに呑み込んでしまうことができたなら、どんなに素敵だろう。
そのための余裕や安定を含んだ土台を自分の中に構築しておきたい。
幸福という土台を、自分の中に。
やはり私は幸せでありたい、そう思う。






「執着を棄てる」ことについてですら「執着しない状態」に、いつか辿り着きたい。

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