sensitive
一昨日あたりから文章を書く気分が薄れています。
多分今はインプット時期なのでしょう。
医学雑誌を読んだり青色本の続きを読んだりしています。
Twitterすら殆ど見ていない。体質が変わってきたのかな。
Twitterは細切れの時間でも楽しめるけれど意図的に時間を細切れにしてしまう可能性もありますからね・・・くわばら。
我々が認識している物理的な世界は視ること触れること聴くことといった五感の限界が設定されているため、認識の範囲を拡げようとしたところで限界の壁にぶち当たるのだよなあ、と思いました。
勿論生まれついての能力の性能を上げる努力はしたい。けれど必ずどこかに限界はある。
でも、思考にはそれがないのですよね。
何をどう考えてもよいのだ。
そして痛みやら悦び、怒りといった五感を経由した感情は思考を加速させる材料とも為りうるなあ、と。時に思考が感情に振り回されることも、あるのですけれど。感情主体で物事を捉えてしまうと、それが起こるように思います。
「自分が快適でありたいから楽な方を選択する」とか「あの人のことが好きでないから話をしたくない」というような具合に、行動に先んじて感情が立ってしまうと、合理性を失った人格を形成するように思えるのです。
その全てが悪いこととは思わないけれど、感情に振り回されるのは本意ではないなあ。
自分の感情の動きにセンシティブでありたい。
「宇宙は我々を呑み込むが、我々は考えることによって宇宙を呑み込むことができるのだ」(Blaise Pascal『Pensées』)
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年5月24日
「思考すること」には限界の壁がないのだな、と ふと思う。どこまで想像してもよい。総てを許されている。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年5月24日
人の思想に触れ、例え驚愕し劣等感を抱いたとしても、その思想は自分の中に織り込まれ、次の新しい思想へ導く土台となるに過ぎない。そうして自分の中の世界がひとつになってゆく。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年5月24日
感情ですらそれを加速させるための材料なのかもしれない。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年5月24日
時々、感情が主体となってしまう自分がいることに気がついて内省する。快適であるための行動をとってしまったときは特に、感情による支配を受けているなと感じる。それが悪いこととはいわないけれど、それが全てではありたくないな。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年5月24日