遊泳

猫、或いはサイエンス

sensitive

一昨日あたりから文章を書く気分が薄れています。
多分今はインプット時期なのでしょう。
医学雑誌を読んだり青色本の続きを読んだりしています。
Twitterすら殆ど見ていない。体質が変わってきたのかな。

Twitterは細切れの時間でも楽しめるけれど意図的に時間を細切れにしてしまう可能性もありますからね・・・くわばら。

我々が認識している物理的な世界は視ること触れること聴くことといった五感の限界が設定されているため、認識の範囲を拡げようとしたところで限界の壁にぶち当たるのだよなあ、と思いました。
勿論生まれついての能力の性能を上げる努力はしたい。けれど必ずどこかに限界はある。
でも、思考にはそれがないのですよね。
何をどう考えてもよいのだ。

そして痛みやら悦び、怒りといった五感を経由した感情は思考を加速させる材料とも為りうるなあ、と。時に思考が感情に振り回されることも、あるのですけれど。感情主体で物事を捉えてしまうと、それが起こるように思います。

「自分が快適でありたいから楽な方を選択する」とか「あの人のことが好きでないから話をしたくない」というような具合に、行動に先んじて感情が立ってしまうと、合理性を失った人格を形成するように思えるのです。
その全てが悪いこととは思わないけれど、感情に振り回されるのは本意ではないなあ。
自分の感情の動きにセンシティブでありたい。