遊泳

猫、或いはサイエンス

adherence

執着について考えています。

私は断捨離という概念が苦手なのですが「勿体なさ」という経済的側面より、物への執着心に端を発した感情なのではないかと自分では推察しています。

物には物語性があります。
手にいれた背景、共に過ごした時間、纏わる思い出、部屋の景色の一部であるという馴染感。
人から貰ったものであるならば、その人の想いもまた含有します。
物を手放すということは、それらもまた切り捨てることに他ならない。
つらい。

そのような考え方をしている人間なので、逆に自分が執着されるという事に対しても、同様の感情をそこに見出だしてしまいます。
相手の生活に、感情に、人生に、私が入り込み、容易に棄てられてしまわない存在になること。
私という物語ごと、愛し、欲し続けてほしいということ。

もしかしたらこれは自分の価値を信頼できない、自信のなさ故の、願望みたいなものなのかもしれません。
求められているということは、価値があるということ。そんな図式が浮かんでくるのでした。

とはいえ、キャパシティには限界があります。
物心ともに。
抱えすぎてむっちりと詰め込まれた部屋にも心にも、新しい風は吹き込まない。そんな意見もまた一理ある。
私の欲張りな心を軽やかにするならば、やはり何かしら荷をおろさなければならないのだろうなあ。なんて。