遊泳

猫、或いはサイエンス

モノクロ

私はどうも、物事に対して白黒はっきりつけたがるという傾向があるようです。
中途半端な立ち位置に置かれるとどう振る舞ってよいのかわからない。
しかし物事は全か無かで成立している訳ではないことも勿論理解しています。水墨画のようにぼやけてる部分もあった方が風情があるよね、というきもちがないわけでもないのです。
もしかしたら深刻に不快な感覚に対してのストレス耐性があまりないのかもしれません。

そういえば私は基本的に楽天家であまりくよくよしない性質をもっており(もしかしたら沖縄の血を濃くひくからでしょうか)、尚且つこれまで比較的うまいこと深刻なトラブルを回避しながら生きてきたように思います。
立ち回りが巧いのか、それともトラブルをトラブルと認識する検出感度が低いのか。どっちもありそうだなあ。

執着することと諦観をもつことは相反するようでいて、その実とても似通った苦しさがありますね。
執着し続けることが苦しいので諦める、諦められなくて執着する。背中合わせの感情。

陳腐な喩えだけれど、私にとても大好きな人がいるとして。でもその人は別の人のことが大好きで。私が諦めることがおそらく相手にとって幸せな状況であろうと理解はしていても、私は簡単にその執着を棄てることができるでしょうか。
なぜその人に執着するのか、と問われればこのケースの場合私は「自分が気持ちよくあるため」という答えにたどり着いてしまうのですが、ここに嵌まったら最後、出口のない迷宮をさ迷うことになるのです。
「ではなぜ自分本位ではならないのか」
「相手のしあわせとは何なのか」
「そのしあわせを一元的、一面的にジャッジメントしてよいものなのか」
皆目わかりません。
私はもう少し、自分本位であってもよいのかもしれない。



ごみを棄てたひとの心の醜さのようなものは浄化されないかもしれないけれど、それ以上に素敵なものを見ることができたように思いました。