アヒルの子は可愛い。
事実とは最大多数の納得を獲得できるような共通概念、もしくはその前提を指すという認識でいたけれど、たとえば絶対的に確定された事実のことを真実と呼ぶのだろうか。だとしたら、真実は果たして存在するのだろうか。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年7月26日
どんなに事実への分解能を上げても要素は底なしに湧いてくる。それは知れば知るほど謎が生まれることとどこか類似しているような気がしてる。
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年7月26日
前提条件を共有しあった上で設定された質問に対して正解を導きだすことは不可能ではないけれど、そうでない場合、正解とか真理とか真実といった、ただ1つの答えに辿り着くことはできないのではないか、ということについて考えています。
視点を変えれば正解は変わる。この世界はそんな不確かで流動的なものでできているように思うのです。
(Twitterでそれはアヒルの子理論に似ているというご指摘を受けてググりましたが、確かにそういう概念に近いです )
分解能を上げるとはこの場合、この世界を構成する要素と要素、その二点を別のものとして認識できるという意味で用いていますが、例えばある二点間の距離を認識できたとしても、その要素をまた分解しなければならない。
永遠に続くマトリョーシカ。
開けても開けても中から謎が飛び出してくる。
ワクワクするような、でも切ないような、美しさがそこにはある。
充たされることのない欲が沸き上がります。途方もない世界。
かつて鈴木光司氏は『ループ』の中で世界を完全シミュレートするコンピュータを描きました。
いつか、少なくともこの次元についてはそんなことが可能な未来が訪れるかもしれないですね。
私はそれを見届けることができるだろうか。
なお「私が聞き逃したのかもしれませんが」は「なんで重要なのにそこに触れてないんだオラ」の訳
— なつき㌠ (@natsukissweet) 2016年7月27日
質疑でこの出だしがくると肝が冷えますね。
backupに入ってますように、という祈りの想いが心を駆け巡ります。小心者なのです、ええ。