遊泳

猫、或いはサイエンス

明滅

照明をoffにした光学顕微鏡でフラスコに入った接着細胞を眺めると、夜空に星を散りばめたような景色が拡がることに気づきました。
時々わざと照明をつけ忘れて見とれてみたりしてる。
命が蠢くそのミクロな世界と、我々が現在認識できる最大の世界とに、まさか相似性を見られるとは。ロマンティックな気分になります。

酸っぱい葡萄という喩え話がありますが、人は自分の心を護るために感情を曲げることを厭わない一面があるのだな、と改めて思います。
手に入らないものの価値を貶め否定して溜飲を下げることに何の意味があるのか。それは自分自身の価値をも貶めることになるのではないか。
手に入ろうが入るまいが、そのものが本来もつ魅力や価値は、変わりはしない。
変わるのは、自分自身の心だということ。



こういう時、私は、相手の選択肢を奪うのではないかという点について危惧するのです。
判断を、考える機会を、私が絞りこむべきではないと。
自分が投げた言葉に対して責任をもちたい。
そしてそのことに対する反応は全般相手に委ねたい。
私が何かしらの結論を誘導する必要はない。
慎重に向き合っていきたいのです。自分自身の態度を含めて。



電車に揺られ、河にかかる陸橋が読みさしのページを明滅させる様を、暫し目を細めて眺めました。
朝陽の位置がまだ低いせいで手元に届く光の角度が広いのかもしれません。
もう少し時間が経てばルーペに光を集めるかのように、じりじりとこの身体を焼き尽くすことでしょう。
今はまだ、清涼な煌めきを残してる。

高揚と鎮静の平衡状態。

Reverberation

静かな時間、自分のための時間。
少しずつ取り戻せてきたように思います。

世界を無分節でありながらも無ではない状態に再分節して認識する。なんと難しいことでしょう。
私の中には無分節ですら確立されていない。
ゆえにこの景色は「大空を」「鷺が」「飛んでいる」といった風景に見えてしまう。
総てが融け合いつつも其処にある世界、いつか手に入るだろうか。


誰かを識るということは返し、己を識ることと同じくする。そんなことを思っています。
壁にぶつけた音の反響を聴くように、あなたの中に私を見る。
私の中にもあなたは見えていますか。


絵画のような空
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久しぶりに虹を見ました。
走り出したいような気分で眺めてた。
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闇質的認識

魅力的なものに近づくのがこわい。
そんな気持ちはありませんか。

私はこわい。
感情の渦が巻き起こり自分の心をニュートラルに保つためにエネルギーを費やさなければならないことがこわい。
浮き沈みの振幅が激しくなり自分の心なのに他者に操られているかのように舵を切れなくなるのがこわい。

自ずから覚悟を決めて手に入れにゆく欲は自覚的であれるけれど、「気がついたらそれは欲だった」というのは私にとってとても恥ずかしく思える行為の1つなのです。
日々、それと闘っているようなものなのですけれども。


古代インドの哲学詩『バガヴァド・ギーター』の話題が、井筒俊彦氏の『意識と本質』に出てきます。
実在認識の様式のひとつ、「原質」に内在する存在展開的エネルギーは以下の三段階に分けられるといいます。


第一に(あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節された[すべての]もののうちに無分節の実在を見る)「純質的」認識、

第二に(あらゆる経験的事物のうちに、個々別々なさまざまなものを、個々別々に識別する)「激質的」認識、

第三に(ある一つの対象に、まるでそれがすべてであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執着する狭隘な)「闇質的」認識
(頁122より一部引用)



本書ではこの三相はふだんは均衡を保っているが、ある時それが破られるとあります。
私はまさにこの、第三のフェイズ「闇質的認識」が占める割合が多く、三相の均衡が破られているのではないか。そのように感じました。

特に好奇心という欲が私の中のcollector気質を呼び覚まし、網羅的に情報収集しなければ気がすまなくなる。これはまさに「執着」と呼ばれる行為ですよね。
この気質傾向は仕事などで巧くマッチングすればそれなりにお役だちですが、人生を生きるには少し重たすぎる荷物です。いつまでも充たされないのですよ。厭きてしまうまで。
という訳で、冒頭の言葉に戻るのです。
私は「魅力的なものに近づくのがこわい」
執着が、何よりこわい。

自覚的であり、コントロールしたいのです。しかしそれは本当に難しいことですね。


彼はたいそうな虫好きらしく、売るのとは関係なく見つけたら嬉しいとも言っていました。
子供たちに夢を売る副業でもありますね。
ちょっと面白かったです。

梅雨があけました。
世界がキラキラと輝いてみえる夏がくるよ。

アヒルの子は可愛い。


前提条件を共有しあった上で設定された質問に対して正解を導きだすことは不可能ではないけれど、そうでない場合、正解とか真理とか真実といった、ただ1つの答えに辿り着くことはできないのではないか、ということについて考えています。
視点を変えれば正解は変わる。この世界はそんな不確かで流動的なものでできているように思うのです。
(Twitterでそれはアヒルの子理論に似ているというご指摘を受けてググりましたが、確かにそういう概念に近いです )

分解能を上げるとはこの場合、この世界を構成する要素と要素、その二点を別のものとして認識できるという意味で用いていますが、例えばある二点間の距離を認識できたとしても、その要素をまた分解しなければならない。
永遠に続くマトリョーシカ
開けても開けても中から謎が飛び出してくる。
ワクワクするような、でも切ないような、美しさがそこにはある。
充たされることのない欲が沸き上がります。途方もない世界。

かつて鈴木光司氏は『ループ』の中で世界を完全シミュレートするコンピュータを描きました。
いつか、少なくともこの次元についてはそんなことが可能な未来が訪れるかもしれないですね。
私はそれを見届けることができるだろうか。



質疑でこの出だしがくると肝が冷えますね。
backupに入ってますように、という祈りの想いが心を駆け巡ります。小心者なのです、ええ。

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fancy talk

陰惨で衝撃的な事件が起こり、人々が其々に思うことを述べ合っています。
もしかしたら綺麗事に聞こえてしまうかもしれないけれど、私はこういう時、興味本位との境目がよくわからなくなり、口をつぐんでしまう傾向にあるようです。
犯罪心理学を学んだ訳でもなく、意見を述べる程のソースもなく、被/加害者との接点もない、ただ想像するだけの私に一体何が言えるのか。
ただ我が身が被害者に、或いは加害者になる可能性がゼロではないという事を肝に銘じ、思考停止しないよう考えながら推移を見守りたいと思います。

今はただ、ただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。



私はいつも、何一つ断言ができなくて、この世界を構成する法則も事象も要素も、あらゆる可能性を内包するという逃げ道を常に傍らに置いているような気がしています。
自分にとっての「真実」みたいなものを1つずつ固定してゆければよいのだけれど。
ほらまた「みたいなもの」って言ってしまった。
そんなことを考えながら過ごしてる。

シンポジウムとフクロウカフェ

7月23日(土)に秋葉原で開催された再生医療のシンポジウムに参加してきました。
内容を簡単に要約したものをTogetterに纏めましたのでご興味ある方はアクセスしてご覧ください。

本目的は当該シンポジウムだったのですが、前々から秋葉原にあるフクロウカフェ、いいよ~って聞いていたので、ついに行ってまいりました。

「アウルの森秋葉原店」さん。
http://2960.tokyo/

混雑時には滞在一時間という制限がありますが、ドリンク1杯ついて大人890円。
珍しい種類のフクロウ(ミミズク)もたくさんいます。
薄暗い、森の中をイメージしたような店内には椅子がたくさん置いてあり、リードで繋がれているフクロウさんたちを座って眺めたり、個体は限られますが手袋ごしに腕に留まらせてもらえたり、背中をそっと撫でたりできます。
むちゃくちゃ可愛い(*´ω`*)💕

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1番人気の小さい子を腕に留まらせてもらいました。目が正円すぎる。
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この子が雛だそう。他の大人個体よりガタイがよいの、ペンギンぽさある。
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日本で数羽しかいないという種類
潰れまんじゅうみたいな愛らしさがありました
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他にもメンフクロウ、何故か猿、放し飼いでうろちょろしてるマルチーズなどもおり、和み空間でした。
フクロウにもまた、個性がありますね。
臆病な子もいれば人間観察が好きな子がいる。カメラを向けられると目を反らす子、撫でられるとうっとりする子、馴れてくれると目で追ってくる子など。
とても楽しかったです。またいこう。



自分の俗っぽさをいつまでも受け入れられないことに辟易したりする。

誰かにとっての非日常的日常であればよいのに。

生命の好ましきうるささ。

ふと、
「私はぼんやりしている時間が随分長いのではないか」と思いました。
昨日は有給休暇をとっており、折角だから朝早めに起きてひとりでふらりと、箱根とか小田原とか鎌倉とか、どこか遠くにでも出掛けようかなどと夢想していたのですが、気がついたら15時位になっており。
おかしい。誰が私の時間を食べたのだ?
・・・私だ。


とりとめもない考え事しているうちに数時間が過ぎていて、毎日タイムトリップしているような気分になります。
そんな内容をツイートしたらテーラワーダの瞑想実践者、じのんさんにふぁぼって頂いて初めて気づきました。
そうかこれ、瞑想の入り口かもしれないな、と。
もちろんあれこれ考えてしまうのは瞑想とは違うのですけれど。


Twitterを眺めている場合、誰かの思考が流れ込んできたりリプライなどの通知がくるため、それらに対しての反応が生じ我にかえりますが、知らないうちに多くの時間が過ぎている事だけは類似している。
タイムラインを遡っているあの時間の私の意識はどんな状態にあるのか。もう少し自覚的になりながら遊んでみるのも悪くないかもしれません。


井筒俊彦氏の『意識と本質』を読み始めています。
まだそんなに読み進めていないというのに脳を直接叩かれるような発見がそこここにあり、メモをとりながら読んでいる状況。
頁をくくる手は遅々として進まないけれど、それは幸せという言葉を実現する現象なのかもしれない。

例えば

『コトバは元来、「本質」喚起をその本性とする。』(p25より抜粋)

言葉で物事を表現して初めてその事象は「認識」されるが、しかし同時にその事象は既に本質そのものではない存在に置換されてしまう。故に「本質の実在性」は否定される、というロジックに続いてゆきます。
個人的には「では言葉で規定されないような意識そのものは本質ではないのか?」という疑問が湧くのだけれど、そういった考えに対する答えも後々現れたりするのでしょうか。楽しみです。


土曜日の表参道はまだセミの声があまりしなかったのですが、原宿方面、明治神宮が近づくほどに降り注ぐように感じられました。
あの鎮守の森から沢山のセミが這い出ては、表参道方面に向けて飛び立っているのでしょうか。
じわじわと行動範囲を拡大し、やがて表参道をセミが埋め尽くす頃、盛夏の頂点を迎えるのかもしれません。

去年、道路をよたよたと歩いていたセミを踏まれないようにと木のへりにしがみつかせたら、そこで羽化してくれたようで、翌朝見事な脱け殻だけが残されていた、なんてことがありました。
降り注ぐこのセミの声のどこかに、その一匹が紛れ込んでいるのかもしれないなんて考えたら、ちょっとうれしくなりました。
今年もがんばれ。そして煩いくらいの命の声を聴かせておくれ。