遊泳

猫、或いはサイエンス

カオスなパラメータ

昨日は新国立美術館で開催中のルノワール展へ行きました。
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光と陰の才人だけあって木漏れ日に包まれた人物像がやわらかで印象的でした。それから満ち足りた表情をする猫がよく登場します。
「猫と少年」という作品では片腕に抱き寄せられた猫が恍惚と少年を見上げ、腕にうでと尾を絡ませている。無防備な信頼と愛情。
時と場合にもよりますが、満ち足りたものは安心を与えてくれるものだなあと思いながら眺めました。

ルノワールの絵は人物の表情がはっきりと描かれているけれど、衣服や背景は質感を感じさせながらもふわりとしたタッチだなと感じました。そのせいか、自然と顔立ちに意識がフォーカスしてしまう。
それに抗うように、ぼんやりと描かれた衣服を凝視しているとだんだんと輪郭みたいなものが掴めてきて面白い。空気と人を境界するものをはっきりとさせないような描き方はある意味誠実に世界を模倣していると思いました。
それから、詩人マラルメ肖像画があったのがとても嬉しかったです。井筒さんの本に何度も出てきた名前だったので。世界が繋がったという感覚がありました。


新国立美術館には1階から3階まで解放感のある吹き抜けがあり、1階にあるカフェで昼食をとりました。トレイを持って外のテラス席へ。すると可愛らしいお客様たちが。
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餌付けされているみたいで何度もおねだりにきていてとても可愛らしかったです。


そのあとは六本木ヒルズまで歩いて移動し、ぽやぽやと散策を。
横浜のポケモンに対抗して?こちらはドラえもんだらけのイベント中らしい。アサヒテレビのスタジオが近いからでしょうか。
六本木ヒルズといえばかつてはお洒落で高級な店がたくさん、というイメージがありましたが、久しぶりに来てみると意外と庶民的なテナントが揃っていて「ほほう・・・」となりました。東京ミッドタウンのガレリアと似た印象があったのですがだいぶかわりましたね。こちらは私にとってはひとが多過ぎて落ち着かない感じ。軽くみてまわったあと、静かに過ごせそうなお店でお茶をすることに。

紅茶のお店、ベッジュマン&バートンさん。
こちらでアールグレイのプリンをいただきました。とても濃厚で、プリンというよりはパテのよう。しっかりとアールグレイの風味があり、少し掬っては紅茶と合わせていただくのにちょうどよい。
紅茶はバニラとキャラメルの香りがするラ・クラシックをチョイス。
落ち着いたよいお店でしたが、もうすぐ撤退するらしく残念なきもちに。その前に来ることができてよかったです。
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以下は思ったことなどをちらほらと。




私が某フォロワさんのツイートをRTした内容に対してニー仏さんが寄せてくれた感想が興味深く、そこから展開した考えでした。
折しも数日前、違うフォロワさんが「Twitterは色んな人がいるということがわかればよい」という主旨のツイートをしていて、ひとつの側面としてそれは間違いなくあるけれど、でも本当にそれだけだろうか?と考えていたのでした。

私は自分自身が変わるためにTwitterをやっているわけではないけれど、少なからず受動的な変化はもたらされている。よきにせよ、悪しきにせよ。
カオスなパラメータを入力され合成された私という存在は変化し続ける流動体に過ぎない。
その一瞬、一瞬をこの場所に刻みながら生きているだけ。
あなたも、きっとそうでしょう。





この言葉は届いても届かなくてもよいと思っている。これはただの祈りだから。
ただいつか形を変えてあなたを包み込むような何かに変わればよいなと、そう願っています。日付が変わる頃、毎夜、毎夜。

awake

昨夜予定の半分ほどまで書き上げてあったblogの続きを書こうかと考えたのですが、あまりにも今日の気分に寄り添わないので、イチから書き直すことに致しましょう。
言葉に置き換わらなかった種々の感情や出来事は心の奥底で養分となって次のそれらを育てることでしょう。


とても静かな気持ちでそのことを考えていました。

何か考え事をしているときは、自分のペースを保つことができる環境が私にとっての最善であり、(一部を除いての)他者に干渉されることを好まないところがあります。
故に、ひとが思考の海に沈んでいる時にもまた、干渉をしたくないなと考えてしまう。結果、独り言が増えてしまいますね。

もしかしたら私は、自分のなかで一度結論を出したいのかもしれません。
自分の頭の中で考えたことがどんなに稚拙なものであっても、自分なりの答えを導いたという達成感を獲得したい。
その上で、誰かの意見を聞いて納得ができたなら、結論を変えることも全く抵抗がない。
それから認識の食い違いがない相手との議論ならば最初から愉しいかもしれません。
(認識の修正をすればよいだけの話ですが、その手間が惜しい人と惜しくない人がいる、というこれはただの差別と依怙贔屓)


しかし自分宛てのエアリプか解らないものにたいして何かしらの反応をするのは勇気が要るものですね。
私は「これは伝わるとよいな」と思う発言に関しては名前を入れてエアリプをする(それでもリプライでなくエアリプ)のですが、それはそれとてうううびくびく。臆病者が風を吹かせます。
まあ私も同様のことを数多くのひとにしているのだから自業自得。どうせ恥ずかしい人生だ、開き直って参りましょう。


凪いで見える海のその下にある海流こそが命の脈動。
その脈動に触れられるだけで私の幸福は飽和するのです。
Mentally perceptive and responsive.


強い理論であると思える時ほど、疑ってかかるということ。

明滅

照明をoffにした光学顕微鏡でフラスコに入った接着細胞を眺めると、夜空に星を散りばめたような景色が拡がることに気づきました。
時々わざと照明をつけ忘れて見とれてみたりしてる。
命が蠢くそのミクロな世界と、我々が現在認識できる最大の世界とに、まさか相似性を見られるとは。ロマンティックな気分になります。

酸っぱい葡萄という喩え話がありますが、人は自分の心を護るために感情を曲げることを厭わない一面があるのだな、と改めて思います。
手に入らないものの価値を貶め否定して溜飲を下げることに何の意味があるのか。それは自分自身の価値をも貶めることになるのではないか。
手に入ろうが入るまいが、そのものが本来もつ魅力や価値は、変わりはしない。
変わるのは、自分自身の心だということ。



こういう時、私は、相手の選択肢を奪うのではないかという点について危惧するのです。
判断を、考える機会を、私が絞りこむべきではないと。
自分が投げた言葉に対して責任をもちたい。
そしてそのことに対する反応は全般相手に委ねたい。
私が何かしらの結論を誘導する必要はない。
慎重に向き合っていきたいのです。自分自身の態度を含めて。



電車に揺られ、河にかかる陸橋が読みさしのページを明滅させる様を、暫し目を細めて眺めました。
朝陽の位置がまだ低いせいで手元に届く光の角度が広いのかもしれません。
もう少し時間が経てばルーペに光を集めるかのように、じりじりとこの身体を焼き尽くすことでしょう。
今はまだ、清涼な煌めきを残してる。

高揚と鎮静の平衡状態。

Reverberation

静かな時間、自分のための時間。
少しずつ取り戻せてきたように思います。

世界を無分節でありながらも無ではない状態に再分節して認識する。なんと難しいことでしょう。
私の中には無分節ですら確立されていない。
ゆえにこの景色は「大空を」「鷺が」「飛んでいる」といった風景に見えてしまう。
総てが融け合いつつも其処にある世界、いつか手に入るだろうか。


誰かを識るということは返し、己を識ることと同じくする。そんなことを思っています。
壁にぶつけた音の反響を聴くように、あなたの中に私を見る。
私の中にもあなたは見えていますか。


絵画のような空
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久しぶりに虹を見ました。
走り出したいような気分で眺めてた。
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闇質的認識

魅力的なものに近づくのがこわい。
そんな気持ちはありませんか。

私はこわい。
感情の渦が巻き起こり自分の心をニュートラルに保つためにエネルギーを費やさなければならないことがこわい。
浮き沈みの振幅が激しくなり自分の心なのに他者に操られているかのように舵を切れなくなるのがこわい。

自ずから覚悟を決めて手に入れにゆく欲は自覚的であれるけれど、「気がついたらそれは欲だった」というのは私にとってとても恥ずかしく思える行為の1つなのです。
日々、それと闘っているようなものなのですけれども。


古代インドの哲学詩『バガヴァド・ギーター』の話題が、井筒俊彦氏の『意識と本質』に出てきます。
実在認識の様式のひとつ、「原質」に内在する存在展開的エネルギーは以下の三段階に分けられるといいます。


第一に(あらゆる経験的事物のうちに、唯一なる不易不変の実在を見、分節された[すべての]もののうちに無分節の実在を見る)「純質的」認識、

第二に(あらゆる経験的事物のうちに、個々別々なさまざまなものを、個々別々に識別する)「激質的」認識、

第三に(ある一つの対象に、まるでそれがすべてであるかのごとく、ただわけもなく、実在の真相を忘れて執着する狭隘な)「闇質的」認識
(頁122より一部引用)



本書ではこの三相はふだんは均衡を保っているが、ある時それが破られるとあります。
私はまさにこの、第三のフェイズ「闇質的認識」が占める割合が多く、三相の均衡が破られているのではないか。そのように感じました。

特に好奇心という欲が私の中のcollector気質を呼び覚まし、網羅的に情報収集しなければ気がすまなくなる。これはまさに「執着」と呼ばれる行為ですよね。
この気質傾向は仕事などで巧くマッチングすればそれなりにお役だちですが、人生を生きるには少し重たすぎる荷物です。いつまでも充たされないのですよ。厭きてしまうまで。
という訳で、冒頭の言葉に戻るのです。
私は「魅力的なものに近づくのがこわい」
執着が、何よりこわい。

自覚的であり、コントロールしたいのです。しかしそれは本当に難しいことですね。


彼はたいそうな虫好きらしく、売るのとは関係なく見つけたら嬉しいとも言っていました。
子供たちに夢を売る副業でもありますね。
ちょっと面白かったです。

梅雨があけました。
世界がキラキラと輝いてみえる夏がくるよ。

アヒルの子は可愛い。


前提条件を共有しあった上で設定された質問に対して正解を導きだすことは不可能ではないけれど、そうでない場合、正解とか真理とか真実といった、ただ1つの答えに辿り着くことはできないのではないか、ということについて考えています。
視点を変えれば正解は変わる。この世界はそんな不確かで流動的なものでできているように思うのです。
(Twitterでそれはアヒルの子理論に似ているというご指摘を受けてググりましたが、確かにそういう概念に近いです )

分解能を上げるとはこの場合、この世界を構成する要素と要素、その二点を別のものとして認識できるという意味で用いていますが、例えばある二点間の距離を認識できたとしても、その要素をまた分解しなければならない。
永遠に続くマトリョーシカ
開けても開けても中から謎が飛び出してくる。
ワクワクするような、でも切ないような、美しさがそこにはある。
充たされることのない欲が沸き上がります。途方もない世界。

かつて鈴木光司氏は『ループ』の中で世界を完全シミュレートするコンピュータを描きました。
いつか、少なくともこの次元についてはそんなことが可能な未来が訪れるかもしれないですね。
私はそれを見届けることができるだろうか。



質疑でこの出だしがくると肝が冷えますね。
backupに入ってますように、という祈りの想いが心を駆け巡ります。小心者なのです、ええ。

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fancy talk

陰惨で衝撃的な事件が起こり、人々が其々に思うことを述べ合っています。
もしかしたら綺麗事に聞こえてしまうかもしれないけれど、私はこういう時、興味本位との境目がよくわからなくなり、口をつぐんでしまう傾向にあるようです。
犯罪心理学を学んだ訳でもなく、意見を述べる程のソースもなく、被/加害者との接点もない、ただ想像するだけの私に一体何が言えるのか。
ただ我が身が被害者に、或いは加害者になる可能性がゼロではないという事を肝に銘じ、思考停止しないよう考えながら推移を見守りたいと思います。

今はただ、ただ亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。



私はいつも、何一つ断言ができなくて、この世界を構成する法則も事象も要素も、あらゆる可能性を内包するという逃げ道を常に傍らに置いているような気がしています。
自分にとっての「真実」みたいなものを1つずつ固定してゆければよいのだけれど。
ほらまた「みたいなもの」って言ってしまった。
そんなことを考えながら過ごしてる。