遊泳

猫、或いはサイエンス

儀式。

先月購入した機械式の腕時計、とても気に入ってほぼ毎日つけています。
毎朝目覚め、麦茶を一杯飲み干してキウイを食べたあと、腕時計の螺子を巻き、スマホ電波時計時間に針を合わせる。
一連の動きが儀式のように流れ、やがて行為が習慣化して自分の一部として馴染んでゆくまでの感覚を味わってる。


儀式的な行為はわりとすき。
行為そのものを愉しみ、慈しむ時間は日常から切り離された特別なものとして愛している。


でも本当は物事の大半を無意識のうちに処置し、その間、ぼんやりと考え事をしたりする時間にしていられたら理想的なんだな。
仕事中にこれをやるとミスしてしまうので、生活という限定した時間での話になるのだけれど。

例えば細かい雑事、メモ等に退避して忘れてしまいたいタイプ。
ToDoや覚えておくべきことは、evernoteや付箋紙等を活用するようにしてる。
「まめに書き留める」と「適宜見返す」という習慣を獲得してしまいさえすれば、他の重要事項のための記憶スペックを空けておくことができる。これを始めてから仕事でも生活でも比較的円滑に行動できるようになったと思う。優先順位もつけやすくなるしね。


機械式の腕時計は精度合わせのために毎日螺子を巻くのだけれど、腕に装着して動いていさえすれば、基本的に止まることはない。適切なメンテナンスを定期的にしていれば、何十年、何百年と残すことだってできる。
この腕時計はオープンハートのフェイスにシースルーバックなので、カチコチとしたムーブメントの動きを目で見ても楽しめるし、腕に着けていると私の動きに合わせ、螺子を巻く感覚が伝わってくる。
本当に、生き物みたいなんだよ。

これから先の人生のほぼ同じ時を過ごすであろう新しい相棒の螺子を巻く。
新しくひとつ加わった、私の朝の儀式だ。

woolgather

kentzさんのblogが自由な感じで面白かったので若干触発され、久しぶりにblogを書いています。
正確に言うと「書き始めた」状態であって書き終わりを担保するものではありません。最後までたどり着けるかなー(この2ヶ月間、何度か書いては下書きのまま放置を繰り返していますゆえ)。

勿論内容にも拠るんだけれど、blogはTwitterのような断片的な投稿とはまた違った方向から人となりを表すなあと改めて感じました。
考えの種をどのように育てて刈り取るかをひとつの文章の流れの中で追うことができるお陰で「なぜその結論に至ったのか」を理解しやすい場合が多いからかな。
私のこのblogも同様に、違う方向から照らされたライトのように、私という人間を立体的に浮かび上がらせてくれているだろうか。


先日読み終えた石黒浩先生/池上高志先生の『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』という本がここ最近読んだ本の中でも格別に面白かったです。
元々は久しぶりにサイエンス方面の本を読みたいと考えて購入したのだけれど、予測以上に哲学的エッセンスに満ちた内容でした。

このエピソードがとても興味深かったです。恐らく人の認知を超えたところには規則性があるのだろうな。 直感というものは、このようにコンピュータが導きだす答えと類似したものではないのだろうかなどと考えていました。法則性を見出だすことをショートカットし、結果のみを連れてくるようなイメージ。

最後の章で池上先生が仰っていた「生命の複雑さとはattracting stateではなく、有限な時間の中で、開かれた状態空間の中に生まれる流れの澱」(要約、p146)という概念、生命体の制限状態と相互性の上でmatureになってゆく様子を綺麗に言い表した言葉だなと感じました。
人はどうしたってinteractiveな情報のやりとりの中で磨かれていく生き物なのだな。スタンドアロンが叶わぬのならせめて冬の夜空みたいに硬質で透明な光のような情報で磨かれてたいなあ。

実はこの本を読む少し前に、「入力刺激は絶対的に足りないことはわかるけれど、まっさらな人工知能を赤ちゃんのように育てることで人を模倣することは可能なのか」という疑問についてばうむさんと議論したのだけれど、本当にそのようなことを研究している人がいるのだな、と嬉しくなりました。心がどこにあるのかという疑問への答えは簡単にはでないだろうけれど、今後のアンドロイド研究の進捗が益々楽しみになりました。



「リアルなあなた」に逢わなくても、私はあなたの二次元情報のみを組み立てて3D化することが可能である。
妄想は容易い。
妄想は優しい。
妄想は裏切らない。
閉鎖空間での拙い遊び。



おや。今日は最後まで辿り着けたようです。
これからも気楽に参りましょう。ではでは。

精神的負債の一時預り。

なんとなく本を読む気になれなくて、明けましておめでとうございます。
ついでであるかのようにご挨拶しておりますが心を込めて。ううもう少し休んでいたかった。
今日から仕事始めです。

憧憬する相手に認められたいという気持ち、つい最近自覚したばかりだから私にとってTwitterで見かけたそのテーマはタイムリーな話題でした。相手の目に留まりたくて足掻いて空回りする日々から離脱しかけているところ。なかなかみっともない感情なので、もう少し整理して格好つけてからツイートしたかったのだけれど、ついつい流れに乗ってしまいました。言葉が溢れてしまったのですね。心に収まりきれずにね。


憧れる相手がライバルでもない限り、必ずしも同じ土俵に上がって認められる必要性はないのですよね。時々私はその罠に陥るのですよ。憧れの相手が見ているものを私も見たい、採り入れたい、その人のようになりたいという気持ちが強いのかな。同じ目線で語り合えるようになりたくて、必死になってしまう。その事に最近ふと気づいたのです。


同じ土俵じゃなくてもいい。自分の「やり場」でのステージを上げていくことによって、その人の前で胸を張っていられることを目指せばよいのかな、と漸く思えるようになってきました。


もし憧れの人の世界に於ける構成要素のひとつになりたいのなら、相手の心を変えるのではなく、必要不可欠な存在になることを目指したい気持ちが今はあります。相手の欠けた部分をそっと補うような。或いは、弱い部分を補強するような。適切な時に適切に働く遺伝子として組み込まれたい。そのためには自分の生きる道をより充実させていくことが最も手っ取り早いのではないかなーと考えています。
お互い違った楽器だけどセッションしようぜ、ってな具合にね。素敵な曲を奏でましょう。



そういえば年末にマリーアントワネット展に行ってきました。
個人的に芸術としての魅力はあまり感じなかったのですが、史実を伝える資料としては画期的で素晴らしい材料が揃っていたのではないかと思います。
処刑直前の妹に宛てた手紙など、死へ向かう覚悟と矜持を感じさせる内容で、彼女へのイメージが一新しました。
なかなか面白かったです。
会期中に上野にもゆきたいのだけれどもうすぐ終わりだから混んでるかな、クラーナハ展。
三連休、楽しみましょうぞ。

では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

不定形な認識と感情

2016年最後のご挨拶。

今年読みに来てくださった皆様、ありがとうございました。


そのような「認識」もまた、こうして知覚し、言葉にして切り出すことで初めて実存を与えられるのだな。
世界は線を引かなくても存在している。
けれど切り出さなければ誰かに伝えることは難しい。
ただそのことばかりを言い続けてきたようにも思います。

自分の中にある不定形な認識や感情にただただ、言葉を与える日々。
抽象的なままでは受け入れられないような心に言葉という居場所を与えることで、折り合いをつけたかったということなのかもしれない。

そんな「私というフィルタを通してみる世界」を読んで下さってありがとうございました。
皆様におかれましても、よいお年を迎えられますように。

幸福という性質

今年はギリギリ29日まで働く予定だったのですが、予定よりも早く実験が上がったのでええい!と休みを繰り上げてしまいました。しかし少しばかり無理をしたせいで最終日に体力気力を使い果たし、帰宅した後、床で寝落ちる羽目に。
自堕落、いくない。


幸福の話をしよう。
いや、幸福に限った話ではないのだけれど。

性質とはある指向性をもつもの、或いはその前駆体に含まれる。類似した性質をもつもの同士は誘引しあい、フィルタリングされ、集積してクラスタ化されてゆくのだと考えている。
幸福という性質もまた、そのような特徴をもつイメージがある。

キセノンちゃんが言う「人は満たされている人の元に集う」とは「幸せな(性質をもつ)人の元に幸せな(性質をもつ/もちたい)人が集う」という事だ。
それは共鳴しあう人どうしが誘引しあい、互いの感情にアクセスすることで増強、或いは減弱しながら精製されてゆく「感情の結晶」のことである。

肯定も否定も、感情の精製過程に於いて紙ヤスリの働きを示す。
余剰を削ぎ落とし、指向性を高める。それはまるで、結晶の純度を上げるための道具のようだ。
同様の性質をもつ人が集えば肯定に傾き、意見を強固なものにする。
もし否定があったとしたら、目の細やかなやすりをかけるように修正に用いられる。
異端分子を排除しながら。

あの頃のキセノンちゃんは純度のことしか考えていなかった。フィルタリングの暴力性について無頓着であったのだと今なら言える。

現在のキセノンちゃんは、こう考えている。
「異端分子を異端分子のままに呑み込みつつも、幸せでありたい」

純度を上げずとも一切をあるがままに呑み込んでしまうことができたなら、どんなに素敵だろう。
そのための余裕や安定を含んだ土台を自分の中に構築しておきたい。
幸福という土台を、自分の中に。
やはり私は幸せでありたい、そう思う。






「執着を棄てる」ことについてですら「執着しない状態」に、いつか辿り着きたい。

期待

期待とは相互作用と干渉と負荷の意味を過分に含む。自分の中に問いと答えをもてる人にとって期待という外挿はリズムを乱す要因になりやすいのかもしれない。

期待に応えることに含まれる、優しさと強迫観念。そういった相手への負荷を思えば、おいそれと期待なんてできないよね。だから人は大義名分の元にそれを行使するのだろうか。それとも負荷に対して敢えて鈍感になっているのだろうか。

しかし逆に「期待されたいひと」にとって期待されることとは自分の能力と存在証明の機会であると捉えるのかもしれない。そこに発生する評価を指標にすれば(相手にとっての)自分の価値を把握しやすいと言えるかな。また期待に応えることができれば自分の価値が高まると考えるかもしれない。

そんなこんなで期待することを必ずしも悪いことだとは考えていないけれど、暴力になる可能性に思い至らず、一方的に誰かに期待をかけることはよろしくないなとは感じている。


2013年に交わした瀧岡さんとの会話を思い出した。彼は挨拶に見返りを求めないのだと話していた。無視されても気にしない。最初から返答がくるものという期待はしていないのだと。
私はその考え方に少し驚いて、それから納得し、認識を改めたのでした。
例えばTwitterでのメンションに対してリアクションを返さない人が少なからずいる。
返さない理由が何なのかは知らない。
私がクソリプを飛ばしたからなのか、埋もれてうっかり見落としてしまったのか、心身の不調なのか、そもそも返さないというスタンスなのか。
ただ、あれこれ憂慮したところで答えがないものに答えを求めても仕方ない。

挨拶もメンションも喜捨のようなもの。
そして「私がしたいからそうしただけ」
自分のために生きていたいよ。


この記事を書くために久しぶりにツイログで瀧岡さんとのやりとりを遡っていた。懐かしい。
瀧岡さんとのやりとりまで一人称は名前呼びだったんだな、私・・・黒歴史やな・・・。滅尽!

metronome

私が紙の本を好む理由のひとつに「いつでもパラ読みできる」ということが挙げられるかもしれない。電子書籍だと大体のページ数を記憶しておかなければならないけれど、紙ならば前後の厚みで「あの内容、だいたいこの辺りに書いてあったな」とあたりをつけることができる。
ページ数は、栞が手元にないときに覚えておいて後から読み返すような場合には頼りになるけれど、長期的に記憶しておくための素材としては少し心許ないように思う。
また、紙の本をパラパラとめくる間、目はそこに書かれていることを断片的に認識し、拾い上げているように思う。そういった端的な情報を獲得しやすいということも含め、紙の本の方が書かれている場所の特定をしやすいと私は感じている。
そういえば電子書籍は2次元であり、紙の書籍は3次元であるから、もしかしたらこの違いが圧倒的情報量の違いを産み出しているのかもしれないな。



私が興味あるのは常に、「私とあなた」という一対一の関係らしい。所謂オフ会やら懇親会やらを好まない理由もそこにあるのかもしれない。
元来、ひとと会い話をすることはそれほど苦痛ではなかったのだけれど、いつからこんなに複数人の集まりが苦手になったんだろうな。年々、内向的になっていくように思う。これが逃げや甘えでなく本質的な変化だとよいのだけれど。

以下は備忘録として。