遊泳

猫、或いはサイエンス

バランス

大変気持ちのよいお天気で、休日出勤ではありましたがとても気分よく出社できました。
この季節、普段は日が昇る前に家を出て日が沈んでから帰宅する日々なのですが、陽光の射す時間は色鮮やかで暖かく、人々の服装も軽やかだなあといった印象。週末も晴れるとよいな。

プラユキ・ナラテボー先生と魚川祐司氏(ニー仏さん)著『悟らなくたって、いいじゃないか』を読みました。
まず感じたのは非常に実用に沿った内容と構成であるということ。全編通して「マッピング」という言葉がキーワードになっているのだけれど、端的にいうと目的地に到達するまでは様々なルートがあるから、自分なりの地図を描き、自分に合った道を往くのがいいよ、正解なんてないんだよ、という事なのではないかと思いました。
瞑想してみたいけどよくわからなくて飛び込むのを躊躇しているという人には「どのように踏み出せばよいのか」「瞑想したらどのような現象が起こりうるのか」を含め、優しく手ほどきしてくれる内容になっています。また、過去自分に合った瞑想法に出逢えずにがっかりしたような経験がある人には違う道があることをを示し導いてくれます。何より「ガチで悟りに至るところまでは志向しないけれど今現在ある苦しみを何とかしたい人」という人にとってよいガイドの役割を果たしてくれるのではないかと感じました。
仏教思想のゼロポイント」が刊行されてから処々の反応があったようで、それらに対する異論・反論も含め書かれていて、より理解に寄り添う内容だなと私は感じました。
もうひとつの重要なキーワードは「perspectiveを開く=Z軸を立てる」ということ。この話がツイキャスででたときのことをよく覚えています。ニー仏さんの「眼」の絵が、なんとも言えぬ味があったこともよい思い出です。「私と対象との関係性を俯瞰してみることができるようになる」ということなのですが、これは本当に難しいことですよね。容易に物語に呑み込まれてしまいそうに、なる。「今、自分が何をどう感じているのか」に気づき「それを客観的に把握すること」ができるようになれば心穏やかでいられる事が増えるかもしれないな。

今は井筒俊彦さんの『イスラーム文化』を読んでいる途中なのですが、イスラム教は仏教思想と根本から違い過ぎていて驚きの連続です。
そもそもイスラム教は、アッラーが全てを産み出したと考えるので因果関係というものを是としないそうで。研究とかどうするんだろ。
改めて自分の思想のルーツ、在り方は仏教思想に深く根づいているのだなと、感じています。信仰がなくても、それらは知らないうちに思考のベースになっていることに気づかされる。


思考と感覚を疎かにするような反射的反応で雑に対応しないよう、日々を丁寧に重ねていくことを、自分に課していきたい。
スピードとクオリティのバランスを忘れないこと。

時々破れ。

one day diaryの家田さんご夫婦に(昨日)娘さんが産まれたという嬉しい報せを受けてのblog更新。
1024、素敵な数だし覚えやすいな。
お祝いもって駆けつけたい気分。1024っていうタイトルの曲作らないのですか、家田さん(1213とごっちゃになるかな)。

たった1つと1つの細胞が融合して分裂して個体を形成するの、どんなに発生学が進歩して機序が解明されつつあっても、やはり神秘的だなあと感じます。意識は果たしていつ宿るのだろう、なんて考えたりする。とても不思議で、そして素晴らしいことですね。
本当におめでとうございます。


この世界は数多の矛盾が散らかり因果も法則性も見いだせないようなランダムさがランダムなまま成立しているようにも見える。でもそれは自分が法則を見いだせていないだけなのかもしれない、そう考えると矛盾も考え方の中に組み込んでおいた方が得策な気がする。矛盾を含んだまま、解るところからマルチタスクに処理していくイメージ。
勿論、1つの統一された法則に収束すれば、それらはすっきりと理解しやすく美しく見えるだろうけれど、世界ってそんなにシンプルにできているだろうか。


そういえば、情報のbitが抹消されるとエントロピーが増大するという考え方があるときき、面白いなと思いました。
逆に、閉じられた状態に於いて情報bitを消費しないでいればエントロピーは平衡に近い状態を保てるのかな。エネルギーのように形を変え、循環させて再利用するような。
イメージとしてはバイオスフィア。
しかし実際はバグとか外挿条件によって平衡状態に破れが生じるだろうし、難しいのだろうな、なんてことを考えていました。
そもそもこの世界自体が閉じられた状態時々破れ、であるような予感はあるのだけれど。いや、なんの根拠もない戯れ言です。

うちの猫たちは甘えん坊なので帰宅するとぴやっと飛んできてはにゃあにゃあするのですが、黒猫の方はお返事がとても上手で、名前を呼ぶと必ず応えてくれます。
今日も「めいたん」「にゃあ」「めいたん」「にゃあ」「めいたん」のくだりを20回ほどやりましたが永遠に続けられそうでした。
負けるなあ・・・

私のマインドスフィアも時々破れが生じるのでちくちくと縫い合わせてとじて、またエネルギーを充填したりしてる。破れめからこぼれだしたエネルギー、せめて代わりに誰かを充たしていられればよいのだけれど。なんて、やっぱり何かに影響したいきもちがあるんだなあ。

おはよう、ただいま、おやすみなさいよい夢を。繰り返し日々積み重ねて生きてゆくのです。

奥行き

平日の二倍の時間眠ってようやく少し回復。最近連続して眠れない休日が続いていたのできちんと眠れたことは自分にとってとてもプラスだったと思います。

奥行きの感じられる文章というのは素敵ですね。
私にとってのそれは、ひとつの物事に対して安易に結論付けて言いきるようなことをせず、思いつく限りの検討を重ね、その中から確度の高いものを抽出して言及していることが判るような文章のことを指します。下手を打つとそれは時に冗長になりがちだけれど、出来うる限りのスマートさをもって、深みのある文章を書けるようになりたいなあ。


対話することは大切だけれど、独りで掘り下げる時間も同じくらい大切で、必要だと私は考えています。
対話しない方が見えてくるもの。例えばそれは自分で何かを思いついて考える時間であったり、他者との会話を反芻することであったり、他者に向ける感情を整理したりする時間。
つまり、人とではなく自分と向き合う時間をもつということをしていたい。
誰かが思索しているときもまた、不用意に話しかけることでその時間を乱すような気がするので、話しかけるのがちょっと苦手なのかもしれません。
最近は、Twitterでのふぁぼの運用も少し変えようかなと考えています。
誰かの思索に対してふぁぼをつけると、それが暗黙誘導のようになってしまう懸念があると思うのです。肯定材料を、提供してしまう。
私は誰かの承認を得て形成される理論や感情ではなく、自分の心と向き合って獲得した答えを知りたい。他者からの評価に揺るがされないような人は勿論いらっしゃるし、そういう人には遠慮なくガンガンふぁぼつけますけれども。うん。


相手との関係性を維持していくための擦り合わせをしなくていいと思っているわけではないけれど、自分を曲げてまで維持することに何の意味があるのだろう、としばしば考えます。
それは先日も少し触れたけれど、「相手に魅力を感じているのか、それとも相手との関係性を求めているのか」というテーマにもつながります。
私はどうしても、「個」としての魅力が関係性を作っていくというのが理想的なのではないか、と思えてしまう。
「個」として相手のことを好きでいられなければ、その関係性に意味があるとは思えないのです。
私は愛している人に魅力的だと思われたいし、私を愛していてほしいけれど、それは私自身の努力の上に成立する愛であってほしい。依願ではなく。相手の努力でもなく。
プライドの問題なのかなあ。



清らかで崇高な心意気とはほど遠く、濁る心があったとしても、前を見て歩きたい。私は私の意思で、他人を傷つけないよう生きていたいな。
綺麗事に言霊を宿して綺麗になりたい。

人工輪廻

今月に入って時間外労働時間が多く、しかも今週は飲み会と懇親会が予定されているため、ここはひとつ体力を温存するつもりで早めに帰宅することにしました。一時間くらいだけど。しかしこの一時間は大きい。無駄にしないようテキパキ動こう。
帰宅の電車も座りたいなと思い指定席特急、しかも運転席のすぐうしろをとったのですが、しゃっとブラインド閉められてしまった・・・うう。そんなに運転手さんガン見してたかしら私。
電車は夜の中を走る。
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時々この2つを混同している人がいて困惑するのです。
例えばTwitterでとても魅力的なアカウントをフォローし、相手からもリフォローしてもらえたとします。しかし暫く立ってリムーブされてしまった場合、自分もリムーブしてしまうといったケース。
或いは恋愛関係において「もう好きではないのだけれど、独りでいるのが寂しいから別れない」というケース。
どちらも興味が「その人」から「その人との関係性」に移行してしまっている。

興味を抱くとき、自分の感情が「どこに」置かれているのかという意識は常にもっておきたい。
そこに「私が本当は何を求めているのか」が現れる気がしてる。


石黒先生の本にも出てきていたけれど、アンドロイドが故人の姿かたちを引き継いで存在し続ける未来というのは近い将来、本当にあるだろうなという気がしている。
人工知能が故人の思考を受け継いで生き続ける形の輪廻。
もし私という人間の思考を完全再現できる人工知能に私とそっくりな肉体を与えられたのなら、「他者から見た人工の私」は永遠の生を観察されるのだろう。そう考えると、「今生きているこの私」は「私自身の意識」にとっては価値があるかもしれないけれど、他者からみた私が「私にそっくりな人工知能」であっても世界は全く変化がないだろう。
生命とはなんだ。

と、ここまで書いておいて朝になりました。
夜明け前、まだ高く残る月は明るい。
この意識とこの身体をもって、今日という今を精一杯生きましょうか。
行ってきます。

発言の範囲

書きたい気持ちがあるのに胸のなかをぐるぐるめぐるような日々、ようやく抜け出して澄んだ気持ちになっています。
もう大丈夫だという確信がある。
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「どうしてそんなに心が綺麗なの」と半ば冗談みたいに会社の先輩に訊かれたのであれこれ考えていた。

私は「汚いものも見えている」のだ。しかしそれらと綺麗なものとを選り分け、そして「綺麗なものだけを抽出している」にすぎない。
その証拠に、私は他人の醜い汚いと(私が)感じる部分についても綺麗な部分と同様に、言及できる。
彼女と私との間で差異があるとすれば、彼女は醜いと感じる部分について言及することを心のうちに留めておけない、つまり発言の範囲をコントロールすることができないというだけのことのように感じている。
もうひとつ違いがあるとすれば、私は「醜い部分もあるのが人間だ」と考えているし、それを理由に他人を嫌うことはあまりない。要素で評価し二項対立するようなことはしない。
自覚があるそれらについて「心が綺麗」と評価されるとなんだかな、と思ってしまうけれど、私はお礼を言いつつ「誉めすぎですよ」とにこりと笑う。あともう少し、巧く生きたい。


ツイ消しされることで「それをpostした理由」に「それを消した理由」が加えられる。これも「2つのモダリティがつながると理解になる」という話とどこか通底しているように思う。
二点間にはそれらを結ぶ「心の動き」があらわれる。「なぜ消したのか」それが私にとってのツイ消しの面白さなのです。自分が消したときでもね。


今日はひとつ嬉しいことがあった。
初めて見かけたときから彼女が可愛くて聡明で透明に見えていたから、とても嬉しかった。
調和を乱さないよう、そっと離れたところからにこにこと微笑んでいたい。
愛しいひとたちが日々、幸せでありますように。

commit

雨。
2日連続で激しい雨音を聴きながらぼんやりとしています。



何度かここでもTwitterでもこの事について言及しているように思うけれど、つらさを分解していくとただの要素になってゆくと思うのです。
感情から理論への相転移が起きる。そしてこれは可逆性をもつ。
幸福も、おそらく同じなのではないかなあ。

受動的な幸福と能動的な幸福との間に大きな違いはないけれど、後者のようになんらかの出来事に対して積極的に幸福を見出だしてゆくことは自分次第で可能だと思うのですよね。
文脈の取り方次第で結末は変わる。
そういった意味で、つらさもまた同様なのではないか。
そのように考えていたのでした。


これはあまりにも強い言葉だから敢えて説明はしないけれど、自戒の念として残しておきたい。
私がたとえ誰かに期待し、そして失望したとしても、相手を責めることなく現状を受け入れ、自分の側を改変していきたい。

これは非常に面白いと感じた出来事でした。
意識の外から入力される情報は、五感以外の由来もあることを思わせるような。
何かを「ふと」気づくような時はもう少し意識を研ぎ澄ませてみたいな。もっと何かが見えるようになるかもしれない。






コミュニケーションにあまり自信がない人間なので取得した情報を活かしてcommitすることに苦手意識があります。
安心して話せる相手としか話すことができていない(仕事は勿論別ですが)。
結果的に自分の中に「相手の像」を結ぶことで、理解したと納得してしまう。
そんなもの、自己を投影した傀儡に過ぎないのではないか。歪んだもうひとつの自分でしかないのではないか。
いや、どんなに深い会話を重ねたところで像は像でしかないのはわかっているのだけれど、像の手触りにリアリティがほしい。ただその衝動だけを抱えているのかもしれません。
いやはや、全く困った独り相撲だ。
どうして星を眺めているだけで満たされていられないのか。
「本当の自分なんてない」のと同様にきっと「本当のあなた、本当のきみ」もいない筈なのに。
私はいったい何を知りたいのだろう。
ね。

hook

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台風明けの、見たことのないような濃厚な朝焼けの、妖艶な美しさに驚いて何枚も写真を撮ってしまいました。
影絵のように浮かび上がる建物たち。
世界の外側から景色を眺めているような気分になる。
でも本当は、私もこの赤に呑み込まれた一部なのだ、そんな事を思いました。


昨日はうっかりあるツイートを消してしまい、ツイートがツイログに残っていないかなと該当する年月を遡りました。
2015年の5月。ほんの1年半前のこと。
結果的にそのツイートはやはり失われてしまったようでみつからなかったのですが、その代わり、この1年半の来し方について思いを馳せる機会を得ました。とても有意義な時間をもつことができたように思います。この1年半は自分にとって殊の外、変化を感じた期間だったのです。
新しい幾つかの出逢いがあり、仕事の所属部署が変わり、哲学する人達の考え方に触れものの見方に変化が生まれました。ついでに言えば、Twitterの運用もかなり変えたかな。情報発信、つまりキュレーションすることを辞めましたね。キュレーションめいた(私よりもずっと素晴らしい)情報を流してくれるアカウントが爆発的に増えたと感じ始めたのもちょうど1年半ほど前のことです。
それよりは「私にしかできない言葉や感性の発信の方が求められているのかもしれない」と。
世界にふたつとない(はずの)それらの発信、価値が高いとは言い切れないけれど。そして求められているからツイートするわけではないのだけれど。でもどうせならたくさんの人が楽しいと感じてくれる方がよいな。


今日もフックを仕掛けてる。
いつかの自分がここに辿り着けるように。