遊泳

猫、或いはサイエンス

空へ。

昼間に外を出歩いていないので夕刻の空気から類推される雰囲気だけ感じているけれど、今日は夏が帰ってきたような1日だったみたいですね。
夜のこの雰囲気が既に懐かしくすらあります。

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朝方、向日葵かなあ?と思って撮影した写真。
これからまた夏がくればよいのに、と思う程度には夏がすき。


ふと触発されて黄金率のような受動的な美への感覚について考えていました。有無を言わさず「美しいと感じさせらる感覚」について。
多くの人に備わっている美への共通感覚、例えばそれは生命の維持に関わるような生理学的要因から発生する感覚だったりするのかもしれない。必然としての美。先天的獲得形質としての。

調べてみると、神経美学という学問領域があるらしい。

脳には「感覚運動回路」「感情と報酬の回路」「意味と概念の回路」があり、この3つが美的経験を作っている。

http://gigazine.net/news/20150715-what-beauty-is/


「美しいと感じるもの」に対しては依存性をもたらさない種類の報酬系が働き、快の感覚を与えるという可能性も考えられているよう。
つまりは「美しさを感じること」そのものが、生きていく上である程度の「生きやすさ」を与えてくれるという事なのかもしれない。
他にもデフォルトモードネットワークのトリガーとして働くという説もあるようで、なかなか興味深い。




ここで言いたかったのは
「わかり合うためには共通するレベルの知識を持ち合わせた上でお互いが理解できるまで見解を擦り合わせること」
が必要なんだけど、
「ある程度までわかりあえるまで話につきあってもらうのは莫大なコストがかかりますよ、最初から気が合うひとなら工数少なくてすむけどね」
という話。
相手に対して愛情があるとか、わかり合う事で知識が深まるだとか、何かしらのメリットがない限りはなかなか話あうことができない。世界はシビアだと感じますね。
話したいと思うひとがいるなら、自分自身のレベルを高めなければならない、ということ。
まあ、考え方の違いだとか性格が合う合わないなどの複合的なエレメントもそこに深く関わってくるわけで、自身を高めたところで理解しあえるという訳ではないのですけれども。

金木犀、気がつけば空気中にすべての香りをはきだして、力なくはらはらりとこぼれおちていますね。
小さな小さな星のような形の花びらを掬い上げて空に投げたい。愛しい。

道ゆき。

建物から外に出る度に、空気が甘く香る季節になりました。
金木犀の花は少し離れると枝に対してひと房が塊で巻き付くように咲いているかの如く見えるので、その様がせっせと花粉を集める蜜蜂に似ている気がして愛しさを感じるのです。
もうすぐ降るように散るのも楽しみだな。橙色の絨毯、暖かみのある道ゆき。
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「どんなものに惹かれますか? 」
そう問われて答えてから、改めて思う。
何かに惹かれるその理由は様々だけれど、私にとって心惹かれるものとは、憧憬や尊敬であったり、自分にないものを埋めるといった願望の裏返しであることが多いような気がします。
コレクター気質であるところの背景にはそのような欠失の補填的意味合いも潜んでいるかもしれない。
何かを取り込んだら自分のものになるような思いがどこかにある。そんなもの、幻想なんですけれどね。

何かをこねこねと考え続けていないと溺れてしまうよ。
生きるための水なのにその水で溺れるようなものだけれども。

「理解」についても同様に思う。
解ろうとすることを投げた瞬間、真っ白になる。
理解できないということはどこか、諦めに似ているように思っている。
「もういいか」といってしまうような自分と闘えるようになりたいのです。


窓を開けて眠りたいな。
橙色の夢にひたひたと満たされたい。

self-reliance

ウォーターハウス氏の描く女性の絵は緻密で柔らかでぼんやりと霞んだ背景に溶け込む事ない存在感があるのに、どこかしら、生と死の境目にあるかのような、脆く儚い雰囲気を纏っていると感じます。
頬にさす赤みは確かな生を感じさせるのに、光の少ない虹彩は虚ろに翳る。
その眼に本当に対象を映しているのか。

画集にはハムレットのオフィーリアをモチーフにした絵もありました。
そうか、私ミレーのオフィーリアのような絵がわりと好きなんだな、と気づいたり。
私はネクロフィリアではない(と思う)のですが、生死の境を浮遊する魂のような覚束ないものに心惹かれる傾向があるようです。
理由は、わからないけれど。


「自立していて灰汁が強くない女性アカウント」として当アカウントが某人におすすめされていたようで、そんな風に勧めて頂けるとは恐縮かつありがたいなあと思いつつも、私なんぞ自立には程遠いという自覚があります。
Twitterにめちゃくちゃ依存してますしね。

しかし自立とは何ぞや?と考えたときに想い描く姿は様々でしょうし、何かしら私の一部をそのように解釈してくれたのかなと考えると嬉しい気持ちにもなります。はて、どのあたりがそうみえたのだろう。勧めてくれた方に訊いてみたい。

私が思う「自立している人」とは「迷いや悩みがあったとしても(適切な意見を取捨選択した上で)自分で答えを見つけられるひと」そして「出した答えに対して責任を引き受けられるひと」というイメージ。
そしてもうひとつ加えるならば「自分のなすべき事を為している」ということかなあ。
それが全てではないし正解ではないけれど。
私はそんな風になりたいな。なりたい。



昨夜は体調が悪く、15時間ほど間欠的に眠りと覚醒とをさまよっていたのですが、数多の夢の中できちんと覚えているのはこのシーンだけでした。今でも思い出すとドキリとします。

恐る恐るコンコン、とノックしてみて反応が返ってくるのって嬉しい。私は愚かな増幅機関だ。
幸せの閾値が低いのかな。小さな事実に悦びを見出だして一人遊びしてしまう。
何度も何度も、巡りめぐる。
微睡んでいるのは現実において、なのかもしれない。

焦点距離

雨ゆえに遮断される感覚と、雨だから増幅される感覚があるなと思う。
例えば湿気を含んだ空気は遠くの音をよく伝えるけれど、雨が降り始めるとそれらはかきけされてしまうな、とか。
舗装道路のみずたまりを飛び越して初めて、地表の歪みに気がついたり。
自分の身体機能の幾つかが拡張され、または閉塞することを考え、選り分けながら歩くのです。

the HIATUSのNew albumに収録されている『Clone』という曲を聴きました。
歌詞に出てくるcloneの正体が何であるのかは明かされていない。自分とよく似た誰かの話なのかもしれない。違うかもしれない。
私は、私と鏡写しのような私自身についてなのではないかと思ったのです。
君とは即ち、自分自身を想定して以降の言葉を紡いだ。
でも自分とよく似た何かもまた、「君」であるのかもしれない。


時間が経ってしまったけれど、深井さんのblogを読んで思ったことを書くタイミングを逃してしまっていた。
何度か読み返してみて、それから自分の書いた言葉も見返してみて、改めてうん、そうだなあと納得した。自分のために生きることと他者のために生きること、その2つに厳密な境界を引くことは難しい。双方ともに主体的なエゴイズムは関与するし、その質に差異はないなと。うーむ。
もっと遠くまで視えるようになりたいな。



ないものを在るようにしてはならない。
ないものは、ない。
それを基準においてすすみましょう。

強さなんてよくわからないけど、あなたが私を強いといってくれるのなら、それでいいのです。
ありがとう。

微睡みの終着点(覚醒)

残夏。
激しい雨の音で目が覚めました。
駆け抜けるように去っていったようだけれど、夏のスコールのような雨は好き。叩きつけられてたい。

先週末は高エネ研(KEK:高エネルギー加速器研究機構)の一般公開のためつくばへ(加速器好きにとっては聖地巡礼)。
今回は早起きできなかったので講演会は逃してしまいましたが広大な敷地内をほぼバスを使わず歩いて回れたことと、PF(フォトンファクトリー)の猫先生にお逢いできたことがとても楽しかった。
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PFでI先生をご紹介頂いたのだけれど、その際「グッズは(施設の立場上)儲けを出すことができないんです」というお話を聞き「ああ、じゃあ猫先生Tシャツが売れ残ると痛いわけですね、完売しそうでよかったですねえ」などという会話をしました。厳しいものだ。


自己の存在、量子重ね合わせのようなものだなと思ったのでした。
回転するコインの裏表は回転が止まるまでその性質が確定しないけれど、私という人間は回転を続け、確定することがない。
幾つもの解釈が同時に存在し、且つ、そのどれもが正解でない。
なんて不確かで矛盾した存在なのだろう。


夢をみたのです。
建設中の6階建くらいのビルの屋上。捻れた鉄骨が鳩よけのように突き出しているその場所に私は居たのでした。エレベータもなく、どうやって登ったのかよくわからない。
唐突に「私は死んでいるんだな」ということに気づきました。そして今の自分が既に概念であると理解したのです。
夢はそこで覚めたけれど、あの一瞬の感覚は掌に掴んだかのように実感として残っています。
私の身体はもう残像に過ぎないのかもしれない。
だとしたら面白いのだけれど。

そのあと微睡みの中で見たもうひとつの夢がまた印象的だったのでここに残しておきたいと感じました。

Twitterには詳しく書かなかったけれどイモリは緑色に光り、出てきた糞まで鮮やかな緑色で、夢の中で「GFPかよ」ってセルフツッコミ。
それから太陽はこの世のものとは思えないほど大きかった。実は私の夢ではちょいちょいこの巨大な太陽というモチーフが散見されます。解釈が難しいのだけれど。
とはいえこの夢、初恋のように淡く甘く優しく切なかった。
目覚めたあとに「あの夢の続きを見せて」と願うような夢はいいですね。

微睡みは終着点を迎えました。
そろそろ覚醒しかけている感覚があります。
夢はもう見ないですよ。

update

最近は自宅を出る頃に朝焼けを見られるようになってきました。
9月に入れば星を残すようになり、そのうち昨日の続きのまま今日を始めるような気分になる。
今はまだ、夏の気配をまとった空気の中を歩いているけれど。
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命に対する責任、そんなものをどこまで個人が負うべきなのかは私にはわからない。ただ誰かを大切だと感じる心が生まれる前とあとでは、随分考え方が変わったように思います。
その心を相手にも、代入できるようになった。自分独りで答えを出すべき問いではなくなったということなのかもしれません。
自分の価値についての自信は全くないですけれどもね、今でも。変わることなんてあるのだろうか。


そういえば私宛てかどうかの確証はないですが(blogを)「読む前に星をつけているのではないか」と思われたようで、それは心外でした。うう。
blogでもツイートでも自分なりの解釈がつけられないものに対しては決して星をつけない、というスタンスでいます、という申し開きをしておきましょう。あと私は読むのが速いらしいのでそれも誤解を招く要因なのかな。
どれだけ私がblogの更新を楽しみにしているのか、もうちょっと伝わるとよいなあ。

それから、とあるひとからちょっと嬉しいふぁぼを頂いたのだった。覚えておくためにここに記録しておきましょう。



(私にとってそれは偶然の賜物というか僥倖の類ではあるけれど)心惹かれる相手の懐を覗き見ることができているのはとても幸せなことだ。そして幸せであると同時に、その人が大切にしているものも垣間見る。それらごとそっと大切に思うきもちを忘れないようにしていたい。
蹂躙しないよう、きちんとした距離感を保つこと。(相手から影響を受けて何か変わる以外は)自分らしさをもったままでよいのだという自信をもつこと。
私は何にもなれないけれど私にはなれる。私が私を作っていく。


「何かを始めるには今がもっとも早いタイミングだ」という言葉がありますが、それを思い出しています。
自分をアップデートすることにいたしましょう。

感情当てゲーム

どうして台風の朝にばかりblog更新するのだと思われる方がおられるかもしれませんが、台風の方がタイミングを私の更新に合わせてきた・・・訳もなく、単に電車で読む本を忘れてきたからなのでありました。

人の感情を読むことが苦手なまま生きてきました。
いや、実は一時期は得意なんじゃないかと考えていたことはあったのです。

「そう、よくわかったね」
「わかってくれてありがとう」

その頃はそんな風に言ってくれる人たちの言葉を素直に受け止めていて、相手の考えや感情を理解できていると思い込んでた。そして
「相手のきもちを理解できると喜ばれる」から
「否定しなければ嫌われない」
という発想に至り、いつしか会話が感情当てゲームのようになっていったように思います。
今でもその傾向がある。

相手の主張を理解するために、ある程度感情を解することも恐らくは重要なのでしょう。議論をスムースに進行するための技術としても、それは有効であるから。
でも本来は相手の感情なんて議論の内容そのものには関係のないことなんですよね。拗らせないように話をすすめることは大切だけれども、自分の主張を曲げてまで相手の感情を尊重する必要などないということ、社会人になってようやく理解できてきたように思います。訓練、訓練。

自分の言葉や感情はだれのためにあるのか。
内側に抱えたまま表現されない自己は果たして自己なのか。
人からみた自分と自分が考える自分自身との著しい乖離があるとしたらそれは、もしかしたら封じられた自己表現が作り出すもう一枚の皮膚だったのかなと、今は思います。

相手を理解することばかりを主眼におかない。自分は何を言いたくて、何を表現したいのか。
そんな試行錯誤の真っ只中にいる現在です。