遊泳

猫、或いはサイエンス

possession

友人が予約してくれたお店でお好み焼きを食べ食べ。
お互い旅行のお土産を渡しあったり、恋愛話で盛り上がったり。笑い転げてお好み焼きも美味しくて、幸せな時間をすごしました。
楽しすぎて会いにゆく途中、日記に書こうと考えていたことが霧散してしまった。メモをとる習慣を徹底しないとだなあ。
あ、そうこうしてるうちに思い出しました。

私の中にはいつからか「執着することはあまり推奨されない」という価値観が根づいています。
私は仏教徒ではないのですがテーラワーダ仏教の思想体系については筋の通ったロジックを感じていて、自分の考え方の要所要所にそれらの要素が顔を出しているせいかもしれません。
しかし自分の中にある欲望に正直に心を清ませば、強い執着があり、また執着されたいという願いもあります。それらを閉じ込めて昇華しなければ、いやそもそも何で昇華しなくちゃいけないんだっけ?と迷いを感じることもしばしば。
少なくとも自分が自分で醜いと感じるような行為はしたくなくて、でもその考え方自体にも自己の在り方への拘りという執着がある、この矛盾。ふむー。

誰かの所有物になりたいと願い、その人から執着されることで自身の価値を確認したい。そういった意識は自分で自分に価値をつけられない、即ち自信がもてないということとイコールなのかもしれません。
そして誰でもいいわけじゃ、ないんだよなあ。所有者。