遊泳

猫、或いはサイエンス

感情当てゲーム

どうして台風の朝にばかりblog更新するのだと思われる方がおられるかもしれませんが、台風の方がタイミングを私の更新に合わせてきた・・・訳もなく、単に電車で読む本を忘れてきたからなのでありました。

人の感情を読むことが苦手なまま生きてきました。
いや、実は一時期は得意なんじゃないかと考えていたことはあったのです。

「そう、よくわかったね」
「わかってくれてありがとう」

その頃はそんな風に言ってくれる人たちの言葉を素直に受け止めていて、相手の考えや感情を理解できていると思い込んでた。そして
「相手のきもちを理解できると喜ばれる」から
「否定しなければ嫌われない」
という発想に至り、いつしか会話が感情当てゲームのようになっていったように思います。
今でもその傾向がある。

相手の主張を理解するために、ある程度感情を解することも恐らくは重要なのでしょう。議論をスムースに進行するための技術としても、それは有効であるから。
でも本来は相手の感情なんて議論の内容そのものには関係のないことなんですよね。拗らせないように話をすすめることは大切だけれども、自分の主張を曲げてまで相手の感情を尊重する必要などないということ、社会人になってようやく理解できてきたように思います。訓練、訓練。

自分の言葉や感情はだれのためにあるのか。
内側に抱えたまま表現されない自己は果たして自己なのか。
人からみた自分と自分が考える自分自身との著しい乖離があるとしたらそれは、もしかしたら封じられた自己表現が作り出すもう一枚の皮膚だったのかなと、今は思います。

相手を理解することばかりを主眼におかない。自分は何を言いたくて、何を表現したいのか。
そんな試行錯誤の真っ只中にいる現在です。