遊泳

猫、或いはサイエンス

self-reliance

ウォーターハウス氏の描く女性の絵は緻密で柔らかでぼんやりと霞んだ背景に溶け込む事ない存在感があるのに、どこかしら、生と死の境目にあるかのような、脆く儚い雰囲気を纏っていると感じます。
頬にさす赤みは確かな生を感じさせるのに、光の少ない虹彩は虚ろに翳る。
その眼に本当に対象を映しているのか。

画集にはハムレットのオフィーリアをモチーフにした絵もありました。
そうか、私ミレーのオフィーリアのような絵がわりと好きなんだな、と気づいたり。
私はネクロフィリアではない(と思う)のですが、生死の境を浮遊する魂のような覚束ないものに心惹かれる傾向があるようです。
理由は、わからないけれど。


「自立していて灰汁が強くない女性アカウント」として当アカウントが某人におすすめされていたようで、そんな風に勧めて頂けるとは恐縮かつありがたいなあと思いつつも、私なんぞ自立には程遠いという自覚があります。
Twitterにめちゃくちゃ依存してますしね。

しかし自立とは何ぞや?と考えたときに想い描く姿は様々でしょうし、何かしら私の一部をそのように解釈してくれたのかなと考えると嬉しい気持ちにもなります。はて、どのあたりがそうみえたのだろう。勧めてくれた方に訊いてみたい。

私が思う「自立している人」とは「迷いや悩みがあったとしても(適切な意見を取捨選択した上で)自分で答えを見つけられるひと」そして「出した答えに対して責任を引き受けられるひと」というイメージ。
そしてもうひとつ加えるならば「自分のなすべき事を為している」ということかなあ。
それが全てではないし正解ではないけれど。
私はそんな風になりたいな。なりたい。



昨夜は体調が悪く、15時間ほど間欠的に眠りと覚醒とをさまよっていたのですが、数多の夢の中できちんと覚えているのはこのシーンだけでした。今でも思い出すとドキリとします。

恐る恐るコンコン、とノックしてみて反応が返ってくるのって嬉しい。私は愚かな増幅機関だ。
幸せの閾値が低いのかな。小さな事実に悦びを見出だして一人遊びしてしまう。
何度も何度も、巡りめぐる。
微睡んでいるのは現実において、なのかもしれない。

焦点距離

雨ゆえに遮断される感覚と、雨だから増幅される感覚があるなと思う。
例えば湿気を含んだ空気は遠くの音をよく伝えるけれど、雨が降り始めるとそれらはかきけされてしまうな、とか。
舗装道路のみずたまりを飛び越して初めて、地表の歪みに気がついたり。
自分の身体機能の幾つかが拡張され、または閉塞することを考え、選り分けながら歩くのです。

the HIATUSのNew albumに収録されている『Clone』という曲を聴きました。
歌詞に出てくるcloneの正体が何であるのかは明かされていない。自分とよく似た誰かの話なのかもしれない。違うかもしれない。
私は、私と鏡写しのような私自身についてなのではないかと思ったのです。
君とは即ち、自分自身を想定して以降の言葉を紡いだ。
でも自分とよく似た何かもまた、「君」であるのかもしれない。


時間が経ってしまったけれど、深井さんのblogを読んで思ったことを書くタイミングを逃してしまっていた。
何度か読み返してみて、それから自分の書いた言葉も見返してみて、改めてうん、そうだなあと納得した。自分のために生きることと他者のために生きること、その2つに厳密な境界を引くことは難しい。双方ともに主体的なエゴイズムは関与するし、その質に差異はないなと。うーむ。
もっと遠くまで視えるようになりたいな。



ないものを在るようにしてはならない。
ないものは、ない。
それを基準においてすすみましょう。

強さなんてよくわからないけど、あなたが私を強いといってくれるのなら、それでいいのです。
ありがとう。

微睡みの終着点(覚醒)

残夏。
激しい雨の音で目が覚めました。
駆け抜けるように去っていったようだけれど、夏のスコールのような雨は好き。叩きつけられてたい。

先週末は高エネ研(KEK:高エネルギー加速器研究機構)の一般公開のためつくばへ(加速器好きにとっては聖地巡礼)。
今回は早起きできなかったので講演会は逃してしまいましたが広大な敷地内をほぼバスを使わず歩いて回れたことと、PF(フォトンファクトリー)の猫先生にお逢いできたことがとても楽しかった。
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PFでI先生をご紹介頂いたのだけれど、その際「グッズは(施設の立場上)儲けを出すことができないんです」というお話を聞き「ああ、じゃあ猫先生Tシャツが売れ残ると痛いわけですね、完売しそうでよかったですねえ」などという会話をしました。厳しいものだ。


自己の存在、量子重ね合わせのようなものだなと思ったのでした。
回転するコインの裏表は回転が止まるまでその性質が確定しないけれど、私という人間は回転を続け、確定することがない。
幾つもの解釈が同時に存在し、且つ、そのどれもが正解でない。
なんて不確かで矛盾した存在なのだろう。


夢をみたのです。
建設中の6階建くらいのビルの屋上。捻れた鉄骨が鳩よけのように突き出しているその場所に私は居たのでした。エレベータもなく、どうやって登ったのかよくわからない。
唐突に「私は死んでいるんだな」ということに気づきました。そして今の自分が既に概念であると理解したのです。
夢はそこで覚めたけれど、あの一瞬の感覚は掌に掴んだかのように実感として残っています。
私の身体はもう残像に過ぎないのかもしれない。
だとしたら面白いのだけれど。

そのあと微睡みの中で見たもうひとつの夢がまた印象的だったのでここに残しておきたいと感じました。

Twitterには詳しく書かなかったけれどイモリは緑色に光り、出てきた糞まで鮮やかな緑色で、夢の中で「GFPかよ」ってセルフツッコミ。
それから太陽はこの世のものとは思えないほど大きかった。実は私の夢ではちょいちょいこの巨大な太陽というモチーフが散見されます。解釈が難しいのだけれど。
とはいえこの夢、初恋のように淡く甘く優しく切なかった。
目覚めたあとに「あの夢の続きを見せて」と願うような夢はいいですね。

微睡みは終着点を迎えました。
そろそろ覚醒しかけている感覚があります。
夢はもう見ないですよ。

update

最近は自宅を出る頃に朝焼けを見られるようになってきました。
9月に入れば星を残すようになり、そのうち昨日の続きのまま今日を始めるような気分になる。
今はまだ、夏の気配をまとった空気の中を歩いているけれど。
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命に対する責任、そんなものをどこまで個人が負うべきなのかは私にはわからない。ただ誰かを大切だと感じる心が生まれる前とあとでは、随分考え方が変わったように思います。
その心を相手にも、代入できるようになった。自分独りで答えを出すべき問いではなくなったということなのかもしれません。
自分の価値についての自信は全くないですけれどもね、今でも。変わることなんてあるのだろうか。


そういえば私宛てかどうかの確証はないですが(blogを)「読む前に星をつけているのではないか」と思われたようで、それは心外でした。うう。
blogでもツイートでも自分なりの解釈がつけられないものに対しては決して星をつけない、というスタンスでいます、という申し開きをしておきましょう。あと私は読むのが速いらしいのでそれも誤解を招く要因なのかな。
どれだけ私がblogの更新を楽しみにしているのか、もうちょっと伝わるとよいなあ。

それから、とあるひとからちょっと嬉しいふぁぼを頂いたのだった。覚えておくためにここに記録しておきましょう。



(私にとってそれは偶然の賜物というか僥倖の類ではあるけれど)心惹かれる相手の懐を覗き見ることができているのはとても幸せなことだ。そして幸せであると同時に、その人が大切にしているものも垣間見る。それらごとそっと大切に思うきもちを忘れないようにしていたい。
蹂躙しないよう、きちんとした距離感を保つこと。(相手から影響を受けて何か変わる以外は)自分らしさをもったままでよいのだという自信をもつこと。
私は何にもなれないけれど私にはなれる。私が私を作っていく。


「何かを始めるには今がもっとも早いタイミングだ」という言葉がありますが、それを思い出しています。
自分をアップデートすることにいたしましょう。

感情当てゲーム

どうして台風の朝にばかりblog更新するのだと思われる方がおられるかもしれませんが、台風の方がタイミングを私の更新に合わせてきた・・・訳もなく、単に電車で読む本を忘れてきたからなのでありました。

人の感情を読むことが苦手なまま生きてきました。
いや、実は一時期は得意なんじゃないかと考えていたことはあったのです。

「そう、よくわかったね」
「わかってくれてありがとう」

その頃はそんな風に言ってくれる人たちの言葉を素直に受け止めていて、相手の考えや感情を理解できていると思い込んでた。そして
「相手のきもちを理解できると喜ばれる」から
「否定しなければ嫌われない」
という発想に至り、いつしか会話が感情当てゲームのようになっていったように思います。
今でもその傾向がある。

相手の主張を理解するために、ある程度感情を解することも恐らくは重要なのでしょう。議論をスムースに進行するための技術としても、それは有効であるから。
でも本来は相手の感情なんて議論の内容そのものには関係のないことなんですよね。拗らせないように話をすすめることは大切だけれども、自分の主張を曲げてまで相手の感情を尊重する必要などないということ、社会人になってようやく理解できてきたように思います。訓練、訓練。

自分の言葉や感情はだれのためにあるのか。
内側に抱えたまま表現されない自己は果たして自己なのか。
人からみた自分と自分が考える自分自身との著しい乖離があるとしたらそれは、もしかしたら封じられた自己表現が作り出すもう一枚の皮膚だったのかなと、今は思います。

相手を理解することばかりを主眼におかない。自分は何を言いたくて、何を表現したいのか。
そんな試行錯誤の真っ只中にいる現在です。

風が強く吹いてる。

台風が数時間以内に関東を直撃するというタイミングです。空気が重くのしかかるよう。

前回blogを書いてからさらに色々お出かけをして思うところもあったのですが、今はアウトプットする気持ちがあまり起こらないので寝かせておくことに致しましょう。
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ツイートしたら思いのほか反響があった言葉だけれど、おそらく解釈は様々で、リツイート/ふぁぼしてくれたひと其々の答えがあったのではないかと思う。
この言葉自体で既に記憶を呼び起こすトリガーとして機能するため背景の説明をするつもりはないのです。ただ1つだけ言いたかったのは「理解をしないと前にはすすめないけれど、その理解が答えではない」ということ。理解したいという思いは原動力であり、それを失ったら立ち竦む以外なにも残されないような気がしてる。


普遍的なことに興味はないのです。
自分独りで機能できるようなことを拡大していきたい。
「私とあなた」ではなく「私と私」がクロスリンクするような世界に生きていたい。
ただ、それだけ。

時々そのことを確認しては、静けさを取り戻すのでした。


風は強い。
でも心の中心にある、揺るぎない芯に火を灯しましょう。

真贋

blogサボラーなのですが電車に乗ると何となくスイッチが入る感じがあるので更新などをしてみます。

一昨日は目白の志むらさんまでかき氷を食べに出掛けました。
うず高く盛られたふわふわの氷にとろりと煮込んだ苺がたっぷりの「生いちご」を注文。
数年前にも1度来たことがあるのですが、何度見てもその大きさに驚かされます。でも甘すぎないし苺の粒がしっかり残っていて美味しいので完食です。
ふう。
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そのあとは目白庭園までぽくぽく。
閑静な住宅地に突然現れる門構えと、その向こうに拡がる静謐な空間。
滝の音、木立から洩れる日射し、池に泳ぐ鯉や金魚の影。
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とても落ち着く場所でした。もし近くに住んでいたならベンチで本を読んだりぼんやり景色を眺めるために通ってしまうかもしれないなあ。

そのまま徒歩で池袋まで。
遠いかと思っていたら拍子抜けするほど近くてびっくりです。
製粉会社のタンクがある道を通り抜け、西武池袋線の停車車輌を下から眺められる線路脇を通り抜け、いろはかるたの壁画方面から池袋駅へ。
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この関係者入口の雰囲気がすごくよいな。
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練馬生まれ東上線沿線育ちの私ですが、このルートで池袋に入ったのは初めてで若干興奮しました。
ジュンク堂まで近いのもよい。
医学雑誌を一冊購入し、そのまま向かいの西武百貨店へ。
羽海野チカ先生の世界展をみにゆきました。
はちみつとクローバーの頃からのファンなので思い入れあります。
原画を眺めているだけでくるものがあり、泣いてしまいました(恥ずかしいのでそこはさらりと)。

それから今日は横浜まで出向き、レンブラントのリ・クリエイト(複製画)展へ。
レンブラントも光と陰が美しい画家として有名だけれど、それだけではなく、いつまで眺めても飽きないような緻密さ、質感を徹底的に追求したリアリティ、解剖学的見地に基づいて描かれたことを思わせる肉付きや骨格、浮き出る筋ひとつとっても味わい深い。顔の皮膚の描写など特にそれを感じさせました。
レンブラントは驚くほど多くの自画像を遺しているのですが、それを見比べるのも面白かったです。僅かな手法の違いは勿論、歳を得ていくその過程でのしわや影の入り方にも少しずつ違う工夫がある。徹底的に観察したのだろうな。そしてそれを思うままに描ける技術も本当に素晴らしい。

複製画なので油彩特有の煌めきや奥行きが感じられないのは残念でしたが、写真撮影OKで絵のすれすれまで近づいて観察することが可能なのは複製画ならではの愉しさですね。


以下は毎度の、思ったことなど。

他人の心とか感情が自分の中に流れ込んできて元来自分の中にあった感情に影響を与え、組み換えていくのって物質的で面白い反応だなと思っています。
ウイルスのようだ、とも言える。

自分の感情そのものは微量の生体内物質で容易に左右される訳ですが、外部からの情報刺激がその生体内物質を動員する指令のような役割を果たしている。
ある種の植物は空気中を伝播するフェロモンを介して情報交換するし、人も同様に匂いで好みを判別する機能をもっていたりする。
喩えば「落ち着くようなフェロモン様物質」を出している人といれば本当に落ち着くといったような、感情を操作する物質があるのかもしれない。
この言葉を用いると一気に胡散臭くなりますが、もしかしたら「波動」みたいなものなのかもしれないなあ。言葉がもつ情報みたいに、温度や感触を与えるような波長をもつ粒子をイメージしてる。



誰かを、否、自分自身ですら、知ろうと思ったところで「正しい」答えなんて存在しない。 真に誠実である態度は無記であるのかもしれない。