遊泳

猫、或いはサイエンス

雨宿り

世界が止まっているのではないかと思うくらい、購読しているblogがひとつも更新されない日々が続いた。はてなブロガーは端から順に消され、次は自分の番なんじゃないかと一瞬頭を過る。私の生命は消されずとも言葉は消えた。書いては消すを繰り返す記事。書きたいと思うことほど文字にならない現象。何かを書くためにはある程度思考を整理し、文法やら表現やらを駆使して相手に伝わるように体裁を整える。そのどれもが空中回廊にぶらさがるつり橋のステップ板のよう。踏んだ端から谷底へほどけ落ちてゆく。


どんな文章に魂がこもっていてそうでないかなんて観測で見抜けるものじゃないなと思う。自らを「作家である」と自称する某女性ライターを揶揄する記事を書いた商業ライターは、思ってもいないことでも依頼を請けたのなら書く、時には泣きながらでも書くと記していた。
思ってもいないようなことを泣きながら書く。そこに魂は込められていないと言えるのかな。皆目わからないな。


理由はわからないけれど心惹かれる何かを放つひとたちを磁性という名前の宝箱に集めぼんやりと眺める。そこには癒されるもの、奮起させられるもの、明晰なもの、毒があるもの、発見があるもの、抉られるもの等々、傾向も統一性も感じさせない個性が並び、私の何処かにある扉を開けたり閉めたりする。
Twitterのタイムラインは自分の好きなものを集めた偏った世界といわれるけれど、そこに生身のヒトが介在する限り、社会性がうまれる。たとえば義理フォロー、たとえば言及したいことをのみこむ気遣い。たとえばリムーブを躊躇う心、たとえば巻き込みリプライをしないなど暗黙のルール。社会性から逃れたくてサブアカを作ったりリストに集めたりしても、また新たな社会を産みだすだけ。幾つも並立する、多数のヒトの、或いは自分自身の無数の「社会」。
心がニュートラルな間はなんてことなく受け入れて乗りこなしていけるようなそんな「並立社会」でも、弱っていると居場所をなくす。どこにいればよいのかわからなくなる。だけどそもそも「居場所」ってなんなんだろうな。空いた時間をやり過ごすあいだ、他の人間と触れあう場?それ、私に必要だったかな?そして本を読む私。幼い頃から何も変わっていない。エニアグラムでは20歳以前の性格が当人の本質であるとしているけれど、こういう時にそのことを思い出す。本質ってなんだ?本質は本当に変化しないのか?20歳で本質がfixされるとするならどんな因子が関与するのか。それは不可逆的な現象なのか。因子の関与があるとして、作用点はなぜ20歳でなければならないのか。疑問しかうまれないんだ。
ただ、足元が覚束ない時は本を読む。その性質は確かに、20歳以前の私のままだ。何かを創造するタイプではないんだな。もしかしたら変わりたくなかった、変わろうとしなかった、それだけの事なのかもしれない。


知性でしか蓋然率は上がらないという事実もまた、そこにはある。だから知性を求めてしまうんだ。
如何に認識するか。
認識の仕様を変えてゆくことが、即ち人間をアップデートするということなのだろうから。

雨宿りする野良猫をみかけました。
よい休日を。
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